宗麟原供養塔

【そうりんばるくようとう】

一見燈籠のように見えるが、戦国時代の九州地方で多く建てられた“六地蔵塔”と呼ばれる供養塔である。ちょうど中央部分の各側面に6体の地蔵が彫られている。ただこの宗麟原供養塔の場合、全体的にやや歪な形をしているのは、廃仏毀釈の際に打ち棄てられてしまい、本来あるべき基壇はなく、笠も別のものを組み合わせて置かれている。そして何よりその中心である6体の地蔵像が故意に傷つけられている。しかしそれでもこの供養塔は史跡に指定されている。この供養塔建立の事情が明瞭に判っているためである。

天正6年(1678年)、この地で戦国の九州の勢力図を大きく変える戦がおこなわれた。九州北部を支配する大友氏と、南部を統一した島津氏が激突した耳川の戦い(高城合戦)である。

豊後の大友宗麟は、3万を超える大軍で日向へ南下を開始。自分を頼った伊東氏の旧領奪回を目指しつつ、宗麟自ら理想とするキリシタン国家建設も併せて目論んで侵攻した。一方、日向を手に入れた島津義久は、高城を守る山田有信に弟の島津家久を合流させて約3千の籠城軍を構成させ、大友軍と一進一退の攻防を続ける間に、自ら2万余りの兵を率いて薩摩から北上した。高城での両軍膠着の中、島津軍は奇襲をかけて攻撃、敵軍の戦線が伸びきったところを横合いから一気に伏兵を送り込んで大友軍に大打撃を加えたのである。さらに敗走する大友軍を追い詰め、雨で増水した耳川へ追い立てて3千余りの死者を数えるまでに壊滅させたのである。

そして天正13年(1585年)、この戦で亡くなった将兵の七回忌に際して建立されたのが宗麟原供養塔である。塔は戦いの後もこの地を治めた山田有信が費用を工面して建て、敵味方問わず供養を施している。この供養塔の立つ位置は、耳川の戦いにおいて高城を攻撃する大友軍の本陣が置かれた場所とされている。それ故、建立当時は“豊後塚”と呼ばれており、史跡に指定された折に“宗麟原供養塔”という名称に統一されている。

<用語解説>
◆大友宗麟
1530-1587。豊後の戦国大名で、九州北部を支配していた。耳川の戦いで島津氏に敗れたが、この原因はキリスト教を庇護するあまり家臣団と不和になったこと、また遠征中にキリスト教国建設のために占領した土地の寺社をことごとく破却したために兵の士気が下がったことなどが挙げられる。この戦いによって大友氏は一気に没落。滅亡寸前のところで豊臣秀吉の援助を受けて、所領は安堵された。

◆島津義久
1533-1611。薩摩の戦国大名。日向の伊東氏を追い落として三国の太守となったところで、大友宗麟と耳川の戦いで激突して勝利する。以後、九州制覇を破竹のごとき勢いで進める。しかし大友宗麟の援助を口実に遠征した豊臣秀吉の前に屈する。ただし関ヶ原の戦いを経て江戸時代も薩摩藩として島津氏は継承される。

◆山田有信
1544-1609。島津氏の家臣、家老職。島津氏が伊東氏に代わって日向を支配すると、高城城主となる。耳川の戦いでは敵軍の進撃を足止めして大勝をもたらす。秀吉の九州攻めの際も高城に籠城して徹底抗戦を行い、最後は主君の島津義久の勧告により開城する。義久が病となった時にその身代わりを神仏に願い、その年に死去する。

アクセス:宮崎県児湯郡川南町湯迫