義経神社

【よしつねじんじゃ】

寛政11年(1798年)に近藤重蔵によって創建された、比較的新しい神社である。しかしその来歴は古い。

史実として源義経は平泉で自害したとされるが、不死伝説として主従揃って蝦夷地へ逃れたとする説がまことしやかに伝えられている。それを裏付ける証拠として、平取のアイヌの間では義経の来訪に関する伝承が残されている。社伝によると、義経主従は蝦夷地白神(現・福島町)に着岸するとその西海岸を北上、羊蹄山を越えて平取の地に辿り着いた。そこで義経は現地のアイヌに対して造船・機織・農耕・狩猟などの技術を伝え、「ハンガンカムイ」という名で呼ばれた。つまりアイヌ伝承の創造神であるオキクルミの再来とみなされたとされる。

この伝承を聞いた近藤は、平取に義経を祭神とする神社を建てたのである。そこにはアイヌに対する徳川幕府の政治的思惑が根底にあるのは想像に難くないが(徳川氏は源氏を祖としており、その祖先に近い人物を祀ることによって懐柔を試みているのは明らかだろう)、史実として全く接点があるはずもないこの地に義経の名が残されていること自体、ある種の不思議さを感じるところである。

<用語解説>
◆近藤重蔵
1771-1829。寛政10年に最上徳内と共に蝦夷の択捉島に渡り「大日本恵土呂府」の国標を立てる。その後5回にわたって蝦夷地を訪れ、利尻島を探訪、また現在の札幌に蝦夷の中心をおくことを献策する。晩年は傲慢な性格が災いして閉居、さらに長男が町人を殺害する事件を起こして近江大溝藩にお預けとなり当地で病死。

◆義経の北行説
源義経は1189年に31歳で平泉に自害したとされるが、その死の直後より生き延びて蝦夷地へ渡ったとの伝説が流布する。東北地方にもその足跡が残されており、蝦夷地へ渡ったとされる青森県三厩をはじめ、義経を祀る社寺も存在する。大正時代になると、この説をさらに拡張、義経は蝦夷から大陸に渡りモンゴル帝国の初代ジンギスカンとなったとする「義経=ジンギスカン説」が小矢部全一郎によって主張され、著作がベストセラーとなる。

◆オキクルミ
アイヌ伝承(ユーカラ)における国土創造神。天上より初めて人間界(沙流郡平取町と比定される)に降り立った神とされ、人間に対して害悪をもたらす魔物を退治し、さまざまな文化や産業技術を伝えたとされる。しかし後に人間の心が堕したため去ってしまったという。別名アイヌラックル、オイナカムイ。また各地の伝承によって出自や事跡がかなり異なっており、正確な定説と言われるものはない。

アクセス:北海道沙流郡平取町本町