文子天満宮

【あやこてんまんぐう】

菅原道真を“天神”として最初に祀った場所と言われ、「天神信仰発祥の神社」と称するのが文子天満宮である。この“文子”の名は、延喜3年(903年)に大宰府で没した菅原道真の乳母であった多治比文子の名から採られたもので、菅原道真と共にこの神社の祭神となっている。

道真没後40年となる天慶5年(942年)、文子は北野の右近の馬場に祀って欲しいとの道真の託宣を受ける。しかし一介の平民である文子には叶わぬ内容であり、やむなく自宅の庭に小祠をこしらえそこに道真を祀った。これが文子天満宮の始まりである。その後天暦元年(947年)になって、託宣で示された場所に祠が移ったが、それが現在の北野天満宮の起こりとされている。それ故、文子天満宮は北野天満宮の前身の神社とされ、「天神信仰発祥の神社」と呼ばれるのである。

なお境内には、大宰府へ赴く際に菅原道真がここに立ち寄って腰掛けたとされる腰掛石がある。

<用語解説>
◆多治比文子
生没年不詳。菅原道真の乳母とされるが、道真の生年が承和12年(845年)であるため、託宣を聞いた頃には優に100歳を超えていることになる。実際には、道真の乳母の縁者である可能性はあるが、道真とは直接面識のある人物ではなかったと考えられる。また一説では、託宣を受けた頃の多治比文子は童女であったとも言われる。

◆北野天満宮もう一つの託宣
北野天満宮創建の伝説では、この多治比文子以外にも託宣をおこなった人物がある。天暦元年(947年)に近江国比良宮(現・大津市の天満神社)の神官・神良種の息子で7歳になる太郎丸に道真が降りて、北野に社を建てるよう託宣したとされる。これを聞いた朝日寺の最珍法師の働きかけにより、多治比文子が祀っていた祠が北野へ移されたようである。

◆「天神」の名称
菅原道真を指す“天神”は“天満大自在天神”の略称であり、この神号は永延元年(987年)に一条天皇より賜ったものとしている。しかし実際にはそれ以前から呼ばれていたものらしく、『北野天神縁起絵巻』では生前の道真が無実の罪を天に訴えるとこの神号を含む祭文が降ってきたという。また『菅家御伝記』では、道真の従者で共に大宰府へ赴き、葬儀を取り仕切った味酒安行が延喜5年(905年)に安楽寺に祠を祀った(現在の太宰府天満宮の起こり)際にこの神号の託宣を受けたとされる。また菅原道真を祀った神社としては、延喜4年(904年)に創建の防府天満宮が最初であるとされている。

アクセス:京都市下京区天神町