首洗池

【くびあらいいけ】

寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家軍は、篠原の地で軍勢を立て直し、再び木曽義仲軍と矛を交えた。しかし木曽軍の勢いはとどまるところを知らず、敗走の憂き目となった。その中にあって、大将と思しき出で立ちで奮戦する平家の武者が一騎。それを見た義仲の家臣・手塚光盛が一騎打ちを申し入れると、武者は名乗りを敢えてせず挑み掛かってきた。だが、手塚によって討ち取られてしまったのである。

首実検をおこなった義仲は、その武者が、自分が幼い頃に命を助けてくれた斎藤別当実盛であると認めた。しかしその髪は黒く、70を越えているはずの実盛とは思えなかった。そこで近臣の樋口兼光に尋ねると、かつて実盛は「年老いて戦に出る時は髪を黒く染めて、老人と侮られないようにしたい」と申していたという。そこで首を洗わせると、果たして髪は白くなり、実盛であると確かめられた。義仲は涙を流し、実盛の甲冑を多太神社に奉納したのである。

篠原の古戦場には斎藤実盛にまつわる遺跡が点在する。実盛の首を洗ったとされる池も現存する。池のほとりには、首実検をする木曽義仲・樋口兼光・手塚光盛の中央に、実盛の兜が置かれた銅像が作られている。

<用語解説>
◆斎藤実盛
1111-1183。越前生まれの関東の武将。源義朝に属していたが、源義賢とも親交があったため、その遺児である義仲を助けて木曽に送り届けた。平治の乱より後は関東の有力武将として平家に属し、源頼朝の挙兵後も平維盛の後見として平家軍に従った。富士川の戦いで味方が戦わずして敗走したことを恥とし、故郷に近い篠原の合戦で討ち死にを覚悟して、手塚光盛に討たれる。
実盛討死の際、騎乗の馬が稲の切り株につまずいたとされ、その怨みから実盛は死んで後に稲を食い荒らす害虫となったという伝承がある。ウンカのことを実盛虫と呼ぶのは、このためだと言われる。

◆手塚光盛
木曽義仲の家臣。粟津の戦いでは、最後まで義仲に従った騎馬武者の一人とされるが、戦死。漫画家の手塚治虫は、光盛の子孫であると称している。

アクセス:石川県加賀市柴山町