石堂地蔵

【いしどうじぞう】

崇徳天皇の御代、博多守護で苅萱の関守を兼任していた加藤左衛門尉繁昌は、40歳を超えてもなお子宝に恵まれないことが悩みの種であった。そこで香椎宮へ参拝し子宝祈願をおこなったところ、満願の日に夢枕に一人の翁が現れた。翁は「箱崎の松原の西、石堂川のほとりに行き、白く丸い石を拾って、それを妻に与えよ」とお告げを述べた。目覚めた繁昌は早速石堂川のほとりへ赴くと、古い地蔵の手の上に白く丸い石が置かれてあった。手にすると人肌のような温もりがある。おそらくこれが翁の言っていた石だと感じた繁昌は持ち帰ると、早速妻に持たせたのである。

それから10ヶ月後、妻は玉のような男の子を産んだ。長承元年(1132年)1月24日のことであった。喜んだ繁昌は、石を拾った地にちなみ、子に“石堂丸”と名を付けたのである。

この石堂丸は成長すると、父の職を継ぎ、名も加藤左衛門尉繁氏と名乗る。そして後に、世の無常を感じると妻子も地位も捨てて出家し、苅萱道心として諸国を巡りやがて高野山で修行の日々を送ることとなる。謡曲や説経節で有名な「苅萱」の主人公である。

石堂地蔵のお堂は、御笠川(石堂川)の東にあり、石堂大橋や石堂橋のそばにある。小さなお堂だが、清掃が行き届いていて今でも大切にされているのが分かる。お堂の中には石堂地蔵あるいは苅萱地蔵と呼ばれる地蔵が安置され、子授けのご利益があると広く信仰されている。そしてこのお堂は苅萱道心生誕にまつわる地であり、『苅萱物語』発祥の地とされる。

<用語解説>
◆『苅萱物語』
説経節として成立し、その後謡曲や歌舞伎の演目となった。近代以降は子供向けの物語として『石童丸物語』とも。
加藤繁氏は、自分の妻と妾が表向きは仲睦まじく同居していながら、その本心は嫉妬に狂い、お互いの髪を蛇体に変えて絡み合う影の姿を見てしまう。このことに無常を感じ、繁氏は妻子も地位も捨てて、出家の道を選ぶ。
妾の千里御前には一子の石童丸があったが、14歳になった時に父の苅萱道心が高野山にいることを知り、母子で赴く。しかし高野山は女人禁制であるため、石童丸だけが山へ上り、そこで父を求めて一人の僧に所在を尋ねる。それが父である苅萱道心であったが、生涯家族と会わないと決めていた道心は「探している父は既に亡くなった」と伝える。失意のうちに山を下りた石童丸は、さらに宿で母の千里御前が病死したことを知る。身寄りをなくした石童丸は出家を決意し、再び高野山へ上って父の安否を教えてくれた苅萱道心の門を叩き、父とは知らずその弟子となる。そして父と子は生涯名乗り合うことなかったという。

アクセス:福岡県福岡市博多区千代