和田賢秀公墓

【わだけんしゅうこうはか】

JR四条畷駅の東、国道170号線を北上したところにあるのが和田賢秀の墓である。和田賢秀は南北朝時代の武将で、楠木正成の弟・正季の子として『太平記』に登場する。通称は“新発意(しんぼち)”、仏門に入って間もない僧を意味する。

湊川の戦いで楠木正成・正季が自刃して以来、河内の楠木一党は正成の嫡男・正行を頭領としながら、北朝方との大きな戦いに加わることなく、約10年間雌伏の時を過ごしていた。しかし正平3年(1347年)8月になり、突然正行は紀伊で兵を挙げる。これが正行にとっての初陣であった。この戦いを端緒として正行率いる楠木軍は南朝側の先陣に立って、和泉・河内で次々と北朝軍の大軍を打ち負かした。その怒濤の戦いぶりは“不可思議の事なり”と言われ、北朝方を怖れさせた。その中にあって、和田賢秀は猛将として従兄弟を大将とする軍勢の主力として活躍したのである。

だが、翌年1月に起こった四條畷の戦いで楠木軍の不敗は途切れ、大将の正行以下多くの将兵が討ち取られた。和田賢秀もこの戦いの中で落命したが、その最期は猛将と謳われたに相応しいと言えるものであった。

四條畷の戦いでも楠木軍の勢いは止まらず、北朝の主力である高師直も陣を北へ後退せざるを得なかった。しかし正行の軍勢がそれを追って戦線が伸び、それを北朝別働隊が分断。最終的に正行の軍勢は高師直の陣間近まで迫りながら、多くの兵を失って力尽きたのである。

大将の正行、副将で弟の正時が自刃する中、和田賢秀は戦いで混乱する高師直の陣へ単独で潜り込み、その首級を狙った。しかし、かつて正行の臣下でありながら北朝方に寝返っていた湯浅本宮太郎左衛門に気付かれてしまう。そして最期は太郎左衛門に討ち取られてしまうが、首だけとなっても賢秀の両眼はカッと見開き、さらに太郎左衛門の喉元に噛み付いたまま離れようとしなかったため、太郎左衛門はこれが元で数日後に死んでしまったとされる。

現在の墓所は賢秀が討たれた場所に建てられたものとされるが、その最期の死に様の噂が広まるにつれ“歯噛み様”と呼ばれるようになり、さらに“歯神様”として信仰されるようになっている。歯痛だけではなく「歯が強くなる」ご利益もあるとされる。

<用語解説>
◆楠木正行
1326?-1348。楠木正成の嫡男。湊川の戦いで父が自刃した時はまだ若年で(戦いの直前に父から郷里へ戻るよう命ぜられる“桜井駅の別れ”参照)。延元5年(1340年)頃より南朝の河内守に任ぜられるが、7年間にわたって戦を行わなかった。そして正平3年(1347年)の初陣後、細川・山名といった北朝の主力大名を連戦で打ち破る。しかし翌年1月に四條畷の戦いで敗北し自刃。わずか半年足らずの快進撃であったが、その戦いぶりから父の“大楠公”に対して“小楠公”と後世まで称賛された。

アクセス:大阪府四條畷市南野