九ノ戸神社
【くのへじんじゃ】
豊臣秀吉の天下統一の仕上げとなったのは、小田原の北条氏を滅ぼした後の“奥州仕置”である。これは、豊臣方にいち早く臣従した大名の所領安堵や取り立て、遅参した大名の所領没収といった論功行賞を兼ねたものであった。しかしこの処遇を不服として大規模な反乱や一揆を起こす者も少なからずあった。その中で最後の合戦となったのが、九戸政実の乱である。
鎌倉時代より陸奥国に所領を持つ南部家は、24代当主・晴政の時代に最大版図となるが、天正10年(1582年)に晴政と嫡男の晴継が急死したため家督争いが始まる。最終的に、一時期養嗣子となっていた石川信直が当主となり、小田原で秀吉に謁見することで所領安堵された。だがこの決着に不満を持ったのが、信直と最後まで後継者争いを繰り広げた九戸実親の実兄である九戸政実であった。
九戸氏は南部氏の一門であり、政実は家中でも実力者として勢力を持っていた。それ故に新しい当主に対して公然と叛意を表し、ついには新年の参賀を拒否、居城の九戸城で5000の兵を以て挙兵した。当初信直は家中の内乱として鎮圧を試みたが、九戸勢は南部家屈指の精鋭であり、ついには秀吉に助力を求めた。これに対して秀吉はすぐさま討伐軍を編成して九戸城を取り囲む。その数は約60000。
包囲された九戸勢は善戦するが、わずか2日で半数の兵を失う。そこへ菩提寺の住職が使者となって、城兵の助命を条件に開城の説得をおこなわれた。全員討死が必至の状況であったため政実はこれを飲み、弟の実親を城に残し、家臣7名と共に死に装束姿で城を出た。ところが、開城と同時に秀吉の軍勢は城内へ殺到して撫で斬り、さらに生き残った者を城の一画に追い詰め、火を放って焼き殺したのである。そして捕縛された政実以下8名は、九戸から栗原郡三ノ迫に護送され斬首となった。その後遺骸は塚に葬られたが、時代と共に忘れられた存在となったのである。
ところが、明治になって、夢枕に九戸政実を名乗る霊が現れて供養を頼まれたとする、地元の行者が出てきた。そして斬首されたとされる場所の草叢を探したところ、それらしき塚を見つけたので、碑を建てて供養をした。これが現在の九ノ戸神社の始まりであるとされる。
国道457号線に面した九ノ戸神社の周辺には、九戸政実ゆかりの地があり、北には首級を洗ったとされる“首級清めの池”が残る。また南には、遺骸を埋めた跡に村人が植えたという椿の木が移植され、政実以下8名の将の慰霊の碑が設けられている。


<用語解説>
◆南部信直
1546-1599。南部氏第26代。一時期24代晴政の養嗣子となるが、実子(晴継)が生まれたため廃嫡。そのためか晴政・春継の急死に関わっているともされる。かつて嗣子であったこと、晴政の長女の婿であるなどの点から南部氏の家督を継ぐ。家督継承後は前田利家を通じて豊臣秀吉と接触、小田原参陣で所領を安堵された。
◆九戸実親
1542-1591。南部晴政の次女の婿であり、一門の有力武将であることから南部氏の家督争いに加わるが、石川信直(南部信直)に敗れる。兄の政実の乱では開城に反対して城に残るが、敵兵に攻められ討死。
◆九戸城の攻防
奥州仕置の責にあった浅野長政の書状によると、9月2日に九戸城完全包囲、4日に開城とある。しかし後世の軍記物では、九戸勢は10日以上籠城を続け、攻め手にかなりの損害を与えたことになっており、開城についても攻めあぐねた蒲生氏郷の謀略であるとしている。
◆九戸政実の首級の行方
史実としては、政実の首級だけは京都へ届けられ、一条戻橋に晒されたとされる。しかし九戸村の地元では、三ノ迫にあった首級を家臣の佐藤外記が乞食に変装して盗み出し、地元に持ち帰り埋葬したとされる。現在も九戸村にある九戸神社(九戸政実を祭神とする)近くに、首塚が残っている。
一方、栗原市の九ノ戸神社では、頭部(目・鼻・耳・口)の疾病に霊験があるとされ、首級との関連が示唆されている。
アクセス:宮城県栗原市栗駒稲屋敷九ノ戸