乙女峠キリシタン殉教史跡
【おとめとうげきりしたんじゅんきょうしせき】
山陰地方有数の観光地・津和野を代表するイベントの一つに「乙女峠まつり」がある。昭和27年(1952年)から始まるこの祭は、この地で拷問を受けて殉教した37名を始めとするキリシタン達の慰霊のためにおこなわれている。そして現在乙女峠には、祭が始まる前年に建てられたマリア聖堂と殉教の復元遺跡が広がっている。
この地にかつてあった光琳寺に最初にキリシタンが幽閉されたのは明治元年(1868年)のことである。彼らは、前年に起きた“浦上四番崩れ”と呼ばれる長崎でのキリシタン大弾圧によって捕らえられた人々であり、江戸幕府から明治政府への歴史的大転換にもかかわらず、キリシタン禁制を維持した新政府の意向によって津和野に収監されたのである。津和野に送られた人々は特に信仰心が篤く、改宗に頑なに応じない者が選ばれた。当時の津和野藩主は神道に熱心で、必ず改宗説得を成功に導くと意欲的であったと言われる。
最初はキリシタンを説諭して改宗させようと試みた津和野藩であったが、それが全く通用しないことが明らかになると、一転して激しい拷問を加えて棄教を迫った。真冬に張った氷を砕いた池に裸で投げ込まれ、息も絶え絶えになったところで今度は火炙りに遭わせる拷問。三尺牢と呼ばれる、1m四方の小さな檻に何日も閉じ込める拷問。食事の量もあからさまに減らされ、常に飢餓に苦しめられるなどの惨い仕打ちを受け続けた。
その中で奇跡も起きた。森安太郎が三尺牢に閉じ込められ続けていた時、夜陰に紛れて仲間が慰撫しに行くと「毎夜九つ時から夜明けまでの間、聖母マリアに似た、青い布を頭に被り青い服の婦人が頭上に現れて、話をしてくださる」と語ったという。これが日本で唯一の聖母マリアの出現とされる奇跡である。しかし拷問を受け続けた安太郎はその5日後に殉教する。
明治3年(1870年)になると、さらに先に連行された者の家族も津和野に移送され、拷問は婦女子にも容赦なくおこなわれるようになる。中でも最も痛ましい殉教とされるのが、数え6歳の岩永もりである。慢性的な飢餓状態の子に対して、役人は大量の菓子を見せびらかし「キリストが嫌いと言えばこの菓子を食べてもよい」と誘惑した。しかしこの幼子は「パライゾに行けば、お菓子でも何でもあります」と答えて拒否し、まもなく衰弱して殉教した。
こうして連行された者153名のうち37名の殉教者を出した津和野乙女峠の悲劇は、明治6年(1873年)2月のキリシタン禁制の高札撤去まで続けられた。囚われ生き残った人々はそれぞれ故郷へ戻り、収容先だった光琳寺は早期に破却され悲劇の地は何もなかったように畑に変わっていった。しかし明治24年(1891年)に山口教会主任司祭であったエメ・ヴィリオンの尽力によって、乙女峠の一画に殉教者の遺骨が集められ“至福の碑”と呼ばれる墓が建てられた。さらに昭和14年(1939年)には光琳寺跡の土地を教会が購入、戦後に津和野教会主任司祭となったパウロ・ネーベル(岡崎祐二郎)によって乙女峠マリア聖堂が建てられ、乙女峠まつりが開催されるようになったのである。
<用語解説>
◆乙女峠の名の由来
“乙女”の名は、裏山の通称“乙女山”からとられている(正式な山の名は枕流軒)。津和野藩主の姫が不慮の事故で亡くなった際にこの山の麓に葬られたことから呼ばれるようになったとされる。実際、乙女峠への入口にある永明寺には津和野藩歴代藩主の墓所がある。
◆浦上四番崩れ
長崎を中心に起こった大規模な隠れキリシタン摘発事件で、慶応3年(1867年)の事件が4度目となるため“四番崩れ”と呼ぶ。隠れキリシタンが仏式の葬儀を拒否したことから騒動となり、江戸幕府から明治政府へ政権が変わった後に3000人以上の者が津和野を始めとする各所に配流となって、拷問による棄教を迫られた。当初から諸外国より激しく抗議を受け、さらに岩倉使節団の渡欧の際にも直接抗議され、不平等条約撤廃の大きな障壁になると察した政府が明治6年にキリシタン禁教を撤廃して終結した。全体で650名以上が殉教している。
◆エメ・ヴィリオン
1843-1932。フランス人の司祭。明治元年に長崎に着任、浦上四番崩れで流刑となる人々と関わりを持った。その後神戸・京都での布教活動をおこない、明治22年(1889年)に山口教会主任司祭となる。キリシタン史跡の調査に熱心で、山口在任中には津和野・萩の浦上四番崩れ流刑地での墓碑顕彰や、フランシスコ・ザビエル滞在の大道寺の遺跡発見をおこなっている。
アクセス:島根県鹿足郡津和野町後田