天魔ヶ池
【てんまがいけ】
福井平野の中心部にある小高い山が足羽山である。現在では市民の憩いの場となっている場所であるが、古墳群が発見されているように、地理的にも特別な場所であるとされていたようである。この足羽山の一画に福井市自然史博物館がある。その玄関近くにあるのが天魔ヶ池である。
この池の由来であるが、『角川地名大辞典』によると、朝倉氏が越前を治めていた頃、空に天蓋が掛かっていたのを寺宝院の僧が祈祷によっておろしたことから「天蓋ヶ池」となり「天魔ヶ池」と呼ばれるようになったという。
天魔ヶ池は日本史の表舞台に一度だけ登場する。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は居城である北ノ庄城へ退却する。それを追ってきた羽柴秀吉はこの天魔ヶ池を中心に陣を構え、北ノ庄城を落城させたのである。ここに陣を構えた理由は、おそらく城を俯瞰できる地理的な要因が主であると考えられる。
<用語解説>
◆足羽山
「足羽」の名称は明治以降に付けられたものであり、江戸時代には「愛宕山」と呼ばれていた。現在は自然公園となっている。山そのものが笏谷石という凝灰岩で出来ており、良質の石材として最近まで切り出されていた。またこの石を石材として使用し始めたのが第26代継体天皇であるとされ、足羽山の高台にその石像が置かれている。
◆賤ヶ岳の戦い
本能寺の変で死んだ織田信長の相続争いによって起こる。信長の次男・信雄と三男・信孝に、それぞれ羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家の有力家臣が味方し覇を競った。近江国の賤ヶ岳で羽柴・柴田両軍が激突。敵陣に深入りした柴田軍を羽柴軍が攻撃、また柴田方の前田利家らが戦線を離脱したため勝敗が決着する。柴田勝家は、居城の北ノ庄城に退却するが、翌日には妻のお市の方と共に自害し、北ノ庄城は落城炎上する。
アクセス:福井県福井市足羽上町