鳥羽伏見戦跡

【とばふしみせんせき】

慶応3年(1867年)の終わり頃から、薩長を中心とする反幕府勢力と幕府との政争は目まぐるしく展開した。10月13日(旧暦。以下日付は同様)に薩摩藩に討幕の密勅が下されるが、翌14日に徳川慶喜は大政奉還をおこなって幕府は政権を返上したため、倒幕の実行は頓挫する。新しい政治の枠組みの中でも旧幕府勢力の影響が大きく、反幕府勢力の公家や薩摩によって12月9日には王政復古の大号令が出され、慶喜の政治的発言力を封じようとした。それでもなお慶喜の立場には変化は見えず、号令は有名無実化する。一方、江戸では討幕の密勅の噂が広まり、薩摩藩邸に多数の討幕派の浪士が集結して、各地で騒動を起こした。その結果、12月25日に江戸薩摩藩邸焼討事件が起こり、いよいよ両者の武力衝突は必至となったのである。

江戸での焼討事件の報が大阪にいた慶喜に届くと旧幕府勢力は一気に薩摩討伐を決め、正月2日に、京都へ向けて慶喜上京のための先陣と称して進軍を開始した。その数は15000、それがその日のうちに伏見奉行所で陣を構えた。対して京都で守りを固めた薩摩軍は、同盟する長州・土佐軍も合わせて約5000の兵力であった。

翌日3日の夕刻。桑名藩と見廻組を主力とする別働隊は鳥羽街道を北上して京都市街を目指すが、鴨川に架かる小枝橋で進軍を阻まれる。薩摩軍が陣を張って通さないためである。別働隊を率いる大目付・滝川具挙は延々と押し問答を繰り返すが、全く埒が開かない。とうとう日が傾いた午後5時頃になり、旧幕府軍は強行突破を試み、それを阻止しようとした薩摩軍が一斉に発砲。ここに、その後約1年半の長き渡る戊辰戦争の発端となった、鳥羽伏見の戦いの火蓋が切られたのである。

小枝橋の東南にある四つ辻には、鳥羽伏見の戦いの始まりの地であることを示す石碑が建てられている。数に勝る旧幕府軍であったが、最新式の武器を装備した精鋭の薩長軍には歯が立たず、また指揮系統の乱れもあって、結局この日の戦いでは退却。そして翌日には錦の御旗が登場し、一気に賊軍の汚名を着せられることとなるのであった。

<用語解説>
◆江戸薩摩藩邸焼討事件
薩摩藩は、討幕の密勅が出された直後より、藩士や浪人を使って旧幕府に味方する藩や大商人を襲うことで、旧幕府勢力を挑発した。12月20日頃から、徒党を組んでは薩摩藩邸に逃げ込む賊の集団と、庄内藩と同藩預かりの新徴組との間で死傷者の出る衝突が起こり、ついに12月25日に庄内藩を中心とした旧幕府方が薩摩藩邸に乗り込んで焼き討ちに及んだ。この事件で、旧幕府の勢力は薩摩討伐に一気に傾き、鳥羽伏見の戦いへと繋がった。

◆滝川具挙
?-1881。旗本。外国奉行、神奈川奉行、京都町奉行を歴任する(京都町奉行時代に蛤御門の変に遭遇。六角獄舎にあった勤王の志士37名を斬首)。その後、大目付となる。鳥羽伏見の戦いの発端を引き起こしたが、自身は銃砲の破裂音で馬が暴れて淀城まで逃げるという失態を犯し、旧幕府軍の士気を低下させたと言われる。江戸帰還後に敗戦の責任を取らされ、役職を罷免、さらに永蟄居となる。

アクセス:京都市伏見区中島秋ノ山町