猿橋

【さるはし】

日本三奇橋の1つとされる猿橋は、現存する木造の刎橋である。刎橋は橋脚を用いずに橋を架ける工法で作られており、刎ね木と呼ばれる木材を岩盤に差し込み、その上に新たな刎ね木を先へと突き出すことで橋板を支える部分を組み上げる。そして刎ね木が腐蝕しないように、その部分には屋根が取りつけられる。現存する唯一の刎橋としての価値、さらに独特の工法故の優美さのために、猿橋は国の名勝にも指定されている。

独特の橋の工法から、猿橋には建造にまつわる伝説が残されている。この橋が出来たのは推古天皇在位の時代とされている。造ったのは、百済からやって来た渡来人の志羅呼とされる。

土地の者から架橋を懇願されて承諾した志羅呼であるが、流れが急なために普通の工法では橋が架けられない。思案していると、川の両岸に猿の群が現れた。猿は手をさしのべあって橋を作ると、行き来し始めた。この光景を見た志羅呼は、両岸から材木をせり出すことで橋を架ける工法を思い付いたのである。この「猿橋」という名も、猿の行動を見て着想を得たことから付けられたとされる。現在でも、橋の近くには猿を神使とする山王神社の祠がある。

<用語解説>
◆日本三奇橋
この猿橋と、山口県岩国の錦帯橋。残りの1つは日光の神橋、祖谷のかずら橋、木曽の桟などとされている。

◆志羅呼(しらこ)
百済からの渡来人とされるが、それ以外の経歴は不詳。猿橋の伝説の1つでは、橋の工事が難航したために夫婦共々川に身を投げて人柱となったともされる。
『日本書紀』によると、推古天皇20年(612年)に百済より路子工(みちのこたくみ)という人物が渡来し、作庭などの土木事業をおこなったとされる。この人物は顔や身体に白斑があったとされ、呼び名や渡来時期から、猿橋の作り手の別称ではないかと推測されている。

アクセス:山梨県大月市猿橋町