吉見百穴

【よしみひゃくあな/ひゃっけつ】

大正12年(1923年)に国の史跡に指定された、古墳時代末期の横穴墓群である。“百穴”とされているが、実際は219基の横穴がある(終戦間際に巨大軍需工場が建設されたため、墓群の一部が破壊されている)。

これらの墓群が出来上がったのは6~7世紀頃、古墳としては末期の形態であるとされる。この頃の古墳は、地方を治める首長クラスの巨大な墓ではなく、一定水準以上の階層の者のためにも造られている。吉見百穴はこのような階層の者たち(特にこの一帯は高い技術力を持った渡来人が多数移住している)の遺体を安置する墓として造営されたものと考えられる。またこの横穴式の墓には複数の棺が安置できるスペースがあったり、入口の石蓋をはずせば容易に出入りできることなどから、家族や一族単位で造られている可能性が高いとされる。

吉見百穴は、日本考古学史上最も早い時期である明治20年(1887年)に坪井正五郎の手によって調査された。その結果として坪井が提示した内容は以下の通りである。すなわち、これらの横穴式の遺物は住居跡であり、その大きさから考えて、現在の日本人のではなく、日本にかつてあった先住民族であるコロポックルのものである。その先住民がいなくなった後、横穴式の古墳として再利用されたのである。

いわゆる【プレ・アイヌ説】と呼ばれる、日本人の先祖に関する人類学的仮説であるが、坪井の死後、この説を採る者がなく自然消滅している。そのためか、吉見百穴の摩訶不思議な見た目に加えて、“妖怪”コロポックルの住処というイメージがいにしえの言い伝えであるかのように何となく定着することで、この遺跡は一層ミステリアスな存在として認知されているのかもしれない。

この吉見百穴のそばには、さらに奇妙奇天烈なものが存在している。通称【巌窟ホテル】である。この地に住む農夫の高橋峰吉が独力で明治37年(1904年)から掘り始め、その子の奏治が死去する昭和62年(1987年)に閉鎖されるまで断続的に構築されている。岩を掘り抜いて造られた建築物ではあるが、実際はホテルではなく、峰吉が岩を掘っているのを見た近隣の者が「巌窟掘ってる」と言いあっているうちにそのような名前になったとか。崩落などの危険があるため閉鎖されて久しいが、巌窟ホテルの向かい側にある商店が峰吉の子孫にあたる家であり、さまざまな資料を保管されているそうである。

<用語解説>
◆坪井正五郎
1863-1913。日本最初の人類学者とされる。日本列島における先住民である日本石器時代人をコロポックルであるとする説を唱える。この説は人類学上の問題として大いに論議されるが、坪井の死以降はコロポックル説は自然消滅する。

◆プレ・アイヌ説
大森貝塚を発見したモースが主導した説。縄文時代人をアイヌとする一方、それより前の石器時代に日本列島に先住民が存在していたと考える。この説を引き継いだのが、坪井正五郎の“コロポックル説”である。

◆コロポックル
アイヌの伝承に登場する小人。姿は現さないが、アイヌと物々交換などの交易をして友好的な関係を築いていたが、ある時その正体を確かめようとしたアイヌの若者が女のコロポックルの腕を掴んでその姿を見てしまったため、怒ったコロポックルはどこかへ去って行ったとされる。なおコロポックルは小人であるとされるが、実際の伝承ではアイヌ民族より少し体格が小さい程度であり、一般的にイメージされているものとは大きさは異なる。