犬鳴山 七宝瀧寺

【いぬなきさん しっぽうりゅうじ】

大阪府と奈良県の県境を形成する金剛山地から、大阪府と和歌山県の県境を形成する和泉山脈までの一帯は、かつて“葛城”という名で呼ばれていた。そしてこの地を中心に行場を作ったのが役小角であった。七宝瀧寺も、その修行の場として役小角が斉明天皇7年(661年)に開基した道場であるが、“葛城”に設けられた28の参籠行場の中でも「根本道場」とされ、中心的な地位にある。江戸時代には東にある大峯山系と並んで、修験道の西の修行場として多くの信仰を集めた。明治以降、修験道は一時廃止されたが、昭和になって再興。現在は修行体験として瀧修行もおこなわれている(寺の指導による作法伝授を受ける必要あり)。

七宝瀧寺の名は、境内を流れる犬鳴渓谷にある7つの滝から採られている。淳和天皇の御代、大規模な旱魃が起こったため、祈雨の修法をおこなったところ和泉国一帯で降雨があった。これにより、山中にある名のある七瀑を金銀財宝をあらわす“七宝”に見立て、天皇が命名したとされる。

さらにこの寺の山号となる“犬鳴山”には、不思議な伝説が残されている。

寛平2年(890年)、紀州のある猟師が一頭の犬を連れて、この修行場近くの山中で鹿を逐っていた。鹿を見つけ矢を放とうと狙いすましたところ、いきなり犬が激しく吠えだした。獲物の鹿は逃げてしまい、怒り狂った猟師はいきおい犬の首を刎ねてしまう。ところが、犬の首は宙高く飛んだかと思うと木の枝にぶつかり、大きな蛇と一緒に落ちてきた。刎ねられた首は大蛇の頭にしっかりと咬みつき、蛇も息絶えていた。我に返った猟師は、大蛇が自分を襲おうと狙っていたのを犬が察知して吠えたことに気付き、さらに首を刎ねられてもなお主人を助けようとした忠義に心を打たれた。犬を懇ろに葬り、弓を折って卒塔婆とした後、猟師は七宝瀧寺で僧となったという。そしてその話を聞いた、時の宇多天皇は感銘し、山号を犬鳴山とする勅を出し、それ以来付近一帯は“犬鳴”の地と呼ばれるなったとされる(七宝瀧寺のある山の名が“犬鳴山”ではなく、あくまでこの寺院の山号として“犬鳴山”が冠せられているのである)。

現在も、七宝瀧寺の境内となっている山中の一角にこの義犬を祀った墓がある。

<用語解説>
◆役小角
634?-701?。近畿一円の山岳地帯で修行を重ね、修験道の祖とされる。大峯・熊野・吉野・葛城などの修験道の修行場は全て役小角の開基とされる。

◆淳和天皇
786-840。第53代天皇。桓武天皇の皇子で、平城天皇・嵯峨天皇の異母弟。在位は823-832年。

◆宇多天皇
867-931。第59代天皇。“寛平の治”と呼ばれる徳政をおこない、菅原道真などを重用した。

◆義犬伝説
上記の、飼い犬が身を挺して主人の危難を救う話は全国にあり(特に狩猟中に吠え続け、主人によって首を刎ねられるも、命を狙う害獣を退治する話は圧倒的に有名)、この種の伝説の典型である。

アクセス:大阪府泉佐野市大木