笹無山

【ささなしやま】

一ノ谷の合戦で平家の軍勢を圧倒した源氏方であったが、瀬戸内を中心とする西国はまだ平家の勢力下にあった。その中で源範頼率いる源氏主力軍は、山陽道を西へ向かい九州へ迫ろうと、安芸国まで進出していた。しかし平行盛率いる船団が備前国に上陸し、児島付近の城郭を築いて源氏軍の兵站を遮断することに成功。これによって、源氏主力軍は兵糧不足による士気低下に陥ってしまった。そのような戦況の中で“藤戸合戦”が始まった。

今でこそ藤戸町周辺は干拓されて平野化しているが、当時は小さな島が点在する地形であった。平行盛が陣取る城郭と狭い海峡を挟んだ藤戸に布陣したのは、佐々木盛綱であった。海峡を一気に渡れば城が落ちそうであるが、渡るための手段がない。そこで盛綱は近くで漁をしていた若者に、馬でも渡れる浅瀬はないか尋ねた。若者は親切にも浅瀬のありかを教え、その道筋を案内した。しかし盛綱は礼を言うどころか、若者が秘密を漏らすのではないかと思い、その場で斬り殺したのである。結局、浅瀬を騎馬武者で渡りきった源氏方は、一気に平行盛を追い落として、無事に兵站を確保することに成功する。

一方、恩を仇で返された若者の遺体が発見され、それが源氏方の大将・佐々木盛綱に利用された故の死であることが明らかになる。若者には年老いた老母が一人あったが、その理不尽な仕打ちに半狂乱となり、家を飛び出して裏山に行くと「佐々木と聞けば笹まで憎い」と言い放ち、手足が切れて血まみれになるのも構わず、周囲の笹を全てむしり取って、その恨みを示したという。そしてその執念は後年にまで及び、笹をむしり取った小山には決して笹が生えることがなかったとされ、人は「笹無山」と呼び習わすようになった。

住宅地が切れるあたりに今もこの「笹無山」の小山は残されているが、残念ながら笹がかなり生えてしまった状態であった。後年にこの土地を所領とした盛綱が、自らの惨い仕打ちを悔いて、若者の霊を慰めるために寺院を建立したためなのだろうか。

<用語解説>
◆佐々木盛綱
1151-?。佐々木秀義の三男で、伊豆配流の源頼朝に仕える。頼朝挙兵の際には、所信を打ち明けられた最初の家人の一人に数えられる。源平の合戦では緒戦に参加し、特に藤戸合戦での功績は有名。鎌倉幕府成立後の越後・城氏の反乱の際にも幕府軍の大将として赴任している。

◆平行盛
?-1185。平清盛の孫(清盛の次男・ 基盛の嫡男)。父が早世したため、伯父の重盛に養育される。源平の緒戦に参加、特に藤戸合戦では平家の大将として戦う。最期は壇ノ浦で入水。

アクセス:岡山県倉敷市藤戸町天城