桜山神社 義犬の墓
【さくらやまじんじゃ ぎけんのはか】
明治9年(1876年)に起こった神風連の乱は、明治維新によって特権を奪われた不平士族の反乱の一つである。太田黒伴雄を首領とする、勤王派の一派である敬神党が、政府の廃刀令に対して憤激して乱を起こしたとされる。
10月24日の夜半、約170名の一党が分散して熊本県令や軍幹部宅を襲撃。県令の安岡良亮、熊本鎮台司令官の種田政明、参謀長の高島茂徳らが斬殺され、一時は神風連が優勢に事を運んだが、火器を装備して反攻に転じた軍が機能し始めると、刀や槍のみで装備した神風連は一気に劣勢となった。そして太田黒が銃弾を受け戦線離脱すると潰走を余儀なくされ、乱はわずか1日で鎮圧されることとなった。軍などとの交戦によって戦死した者28名、潰走後各所で自刃した者86名、その他捕縛後に処刑された者なども含めて170名中124名がこの乱によって落命したとされる。
この神風連の乱で亡くなった敬神党の者123名、及び維新前に落命した肥後勤王党の面々などを祀る目的で建立されたのが、桜山神社である。明治18年(1885年)に遺族が結成した桜山同志会が碑を建立、大正2年(1913年)には祠堂が建てられ、昭和23年(1948年)に桜山神社と改称した。
この神社の境内には神風連の乱で亡くなった123名の墓が並んでいるが、その入口に一基小さな墓碑が建つ。これが“義犬の墓”である。
神風連の乱に参加した中に、小篠家の四兄弟があった。長男の一三と次男の彦七郎は島原に潜伏するが、再挙の見込みがないことを知ると熊本に戻って共に自刃。三男の清四郎と四男の源三は金峰山に潜伏後、こちらも再挙の見込みがないことを知って仲間と共に自刃した。長男の一三が27歳、末弟の源三はまだ18歳であった。この小篠源三が飼っていた犬の“とら”は、源三が葬られた墓の前から決して離れることなく、さらに食事も摂らず、遂には餓死してしまった。殉死とも言えるこの犬の忠義に多くの者が感銘を受け、特にということで慰霊の墓が建てられたとされる。
また、熊本市内にある本妙寺そばに建つ雲晴院の境内墓所にも、小篠四兄弟と犬の墓が並んである。3基の墓(清四郎と源三が1基の墓に納められている)の隣に自然石で出来た墓が立つが、それが犬の“とら”の墓である。

<用語解説>
◆太田黒伴雄
1835-1876。肥後藩士飯田家の出で、林桜園に国学・神道を学ぶ。肥後勤王党に属し、同藩の勤王の志士・宮部鼎蔵などと交流があった。明治に入り、新開大神宮の太田黒家の入り婿となり、神官を務める。敬神党の首領として神風連の乱を起こすが抗戦中に被弾、民家へ担ぎ込まれた後に自刃。
◆雲晴院
本妙寺の塔頭寺院。本妙寺は日蓮宗の寺院で、加藤清正が熊本城主となった際に大阪より移転。火事で焼失の後、慶長19年(1614年)に、清正が葬られた廟のある現在地に再建された。雲晴院は寛文3年(1663年)に開創されている。
アクセス:熊本県熊本市中央区黒髪

