源実朝公御首塚

【みなもとのさねともこうみしるしづか】

建保7年(1219年)1月、鎌倉幕府3代将軍・源実朝は鶴岡八幡宮で暗殺された。武士として初の右大臣昇進の拝賀がほぼ終わった時であった。暗殺に及んだは、実朝の甥で猶子、さらに鶴岡八幡宮寺の別当であった公暁である。公暁は実朝を襲うとその首を切り落として、放さず持ち続けた。だが同日、乳母夫であった三浦義村の邸宅へ赴く途中、義村の送った討手である長尾貞景・武常晴ら5名によって急襲され殺害された。そして実朝の首はそこから行方知れずとなり、墓にも首を納めることが出来ず、胴体に下賜された髪の毛一本だけが棺に納められたという。

ところが鎌倉から馬で半日掛かるとされた秦野の地に、その実朝の首が祀られている場所がある。伝承によると、首を運んできたのは、公暁の討手の一人であった武常晴であり、当時の秦野を治めていた波多野忠綱に供養を願い出て葬ったとされる。ただ波多野氏と三浦氏は縁戚でもなく、むしろ関係は良好ではなかったと言われる。一説によると、実朝暗殺を画策して公暁をそそのかして暗殺させたのが三浦義村であり、それを知った武常晴が憤って、首を秦野まで持ち出したのではないかとも言われている。ただし実際には、なぜこの地に首がもたらされたのかは、実朝暗殺の背景と共に謎である。

<用語解説>
◆源実朝
1192-1219。鎌倉幕府3代将軍。源頼朝の次男。兄である源頼家に代わり将軍に就く。生来病弱で厭世観の強い性格であったと言われている。また『金槐和歌集』を出すなど、歌人としても有名。実朝の異例の昇進は、朝廷側による“位打ち”の呪法であるとされ、分不相応の地位に就けることで呪い殺そうとしていると、生前に側近の大江広元が諫言している。実際、死の前年の建保6年(1218年)には権大納言、左近衛大将、内大臣、右大臣と4回も昇進している。その死によって、源氏の嫡流は断絶する。

◆公暁
1200-1219。鎌倉幕府2代将軍・源頼家の次男。実朝の甥にあたる。6歳の時に父が暗殺されて後、祖母の北条政子の手で育てられ、12歳の時に出家。修行のために京都へ上り、実朝暗殺の2年前に鎌倉へ戻り、鶴岡八幡宮寺の別当となる。「親の敵はかく討つぞ」と言って実朝殺害に及んでおり、父親の敵であると誤解(実際には頼家は北条氏の手に掛かっている)していたようである。ただ、出家後も全く剃髪をしなかった、暗殺後は三浦義村に「我は東国の大将軍なり」と伝えたとされ、公暁本人が将軍の座を狙っていた節もある。

◆三浦義村
?-1239。鎌倉幕府の有力御家人。建暦3年(1213年)の和田合戦では、和田義盛と北条氏打倒を画策しながら、最後に北条氏に寝返っている。そのため実朝暗殺についても、公暁をそそのかした黒幕として考えられる向きがある(討手を差し向けて公暁を殺害したのは口封じのためとも言われる)。その後も幕府の政変には常に重要人物として顔を出しており、それと共に北条氏に次ぐ幕府の実力者ともされている。

◆北条義時
1163-1124。鎌倉幕府第2代執権。北条政子の弟にあたる。父の時政と共に政治の中枢を握り、有力御家人を排除して北条氏の地位を確立した。実朝が右大臣昇進の拝賀をおこなった時には、実朝の脇に位置する太刀持ちの役であったが、当日体調不良を訴えて源仲章と交代して難を逃れている(代役の仲章は、暗殺の巻き添えを食らって死亡している)。そのため実朝暗殺を事前に知る立場にあったとの説もある。

アクセス:神奈川県秦野市東田原