東向寺 今川義元首塚
【とうこうじ いまがわよしもとくびづか】
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて海道一の弓取りと呼ばれた今川義元は、織田信長の奇襲によって討ち死にした。討ち取られた首級は、翌日には首実検を経て織田軍によって須ヶ口に晒された。
それを取り戻したのは、今川家の重臣・鳴海城を守備していた岡部元信である。今川勢敗退の後も城を守っていたが、交渉の末、城を明け渡す交換条件として首級を受け取ったのである。
首級を受け取った元信は、そのまま本拠地である駿府へは戻らず、今回の戦いで自らの戦功がないとの理由で、刈谷城に攻め込んで城主の水野信近を討ち取っている。そのせいもあってか、義元の首級は腐敗が進んでしまい、結局、西尾にある東向寺で埋葬したのである。
東向寺は、義元の叔父にあたる徳順上人が第4代住職を務めており、義元とは非常に縁のある寺院であった。おそらくそれを知って元信はこの地に首級を埋葬したのであろう。さらに元信は墓守として2名の武将を現地に留めおいた。そのうちの1名が今村氏で、東向寺の大檀家であったという。
今川義元の首塚は、一般の檀家の墓地とは異なる丘の上に安置されている。海道一の弓取りとまで呼ばれた太守としては、あまりにも小さな塚である。ただ首塚の周囲には数基の墓があり、これらは義元の従者の墓とも、桶狭間の戦いで戦死した武将の墓とも言われている。
<用語解説>
◆岡部元信
?-1581。今川家の有力武将。桶狭間の戦いでの行動は上にある通り。武田家による侵攻によって今川家が滅ぼされた後は、武田家の武将として活躍する。高天神城の守将となるも、徳川家の攻撃により落城、討ち死にする。
アクセス:愛知県西尾市駒場町榎木島