耳塚
【みみづか】
東大路七条近辺には豊臣秀吉にまつわる場所が散見される。この【耳塚】もその中の一つである。
天下統一を果たした秀吉の次なる矛先は朝鮮であった。秀吉は大軍を朝鮮へ送り込んだが、そこで日本の各武将は論功行賞のための証拠品として、朝鮮や明の兵士の耳や鼻を切って塩漬けにして日本へ持ち帰った(残虐といえば残虐だが、当時の日本として は戦場の慣習だった)。その数は約12万6千と伝えられている。それらを集めて供養するようにと、慶長2年(1597年)に秀吉が命じて造らせたのが、この耳塚なのである。そしてその年に盛大な施餓鬼供養をおこなっている。
<用語解説>
◆秀吉の朝鮮出兵
文禄・慶長の役。文禄の役は1592-93年、慶長の役は1597-98年に起きている。中国大陸への進出を考えた豊臣秀吉が、その端緒として始めた朝鮮出兵である。日本軍は兵力約15万で朝鮮に上陸、侵攻をおこなった。
アクセス:京都市東山区茶屋町