慈恩寺 玄奘塔
【じおんじ げんじょうとう】
玄奘三蔵法師と言えば、『西遊記』でおなじみの唐の名僧である。経典を求めてはるばるインドへ赴き、それらを持ち帰って漢語訳した事績は、中国ばかりか日本の仏教発展に大いに寄与した。その遺骨が安置されているのが、慈恩寺の玄奘塔である。
玄奘の遺体は最初長安にあったが、宋の時代に頭骨だけが南京へ移動したとされていた。ただその所在は長らく不明であった。昭和17年(1942年)、当時南京を占領していた日本軍は、稲荷神社建立のための整地をしていたところ、偶然石棺を発見した。その中に納められていたのが、行方不明であった玄奘の遺骨であると判明したのである。日本軍は中国南京政府にこの遺骨を返還し、昭和19年(1944年)になって南京市街に玄奘塔が建築され、式典が催されるに至った。その席で、中国側の提案で、遺骨を日本へ分骨する提案がなされたのである。
日本にもたらされた分骨は、最初は仏教連合会の本部のあった東京の増上寺に安置されることとなる。しかし既に東京への空襲が始まっており、破砕を怖れた連合会は、会長の倉持秀峰の住職寺のある蕨市内へ分骨を移す。さらに空襲のおそれの少ない慈恩寺へ移動させ、そこに仮安置させることとなったのである。
終戦後、仮安置だった分骨は正式に慈恩寺に置かれることとなった。そこで中国側の最終的な意向を尋ねたところ、返還の必要なく、慈恩寺に安置を認める蒋介石の返答を得た。そして建塔が始まり、昭和25年(1950年)に基礎部分に納骨、そして塔そのものの落慶法要が昭和28年(1953年)に執りおこなわれ、慈恩寺の飛び地境内に玄奘塔が完成したのである。
なお、慈恩寺は天長元年(824年)に慈覚大師によって建立された古刹。その寺名は、かつて慈覚大師が唐で修行した大慈恩寺より採られている。この大慈恩寺こそが、玄奘がインドより持ち帰った仏典を漢語訳した寺院である。この縁をもって慈恩寺に玄奘の分骨がなされたのである。
<用語解説>
◆玄奘
602-664。629年にインドへ赴き、645年に帰唐。『大般若経』や『般若心経』などの漢訳をおこなう。また旅の記録として『大唐西域記』を著しており、これが後の『西遊記』のモチーフとなっている。
◆慈覚大師
794-864。円仁。最澄の弟子であり、第3代天台座主。838年に唐へ赴く。その後約10年にわたって中国各地で修行をおこなって帰国する。その期間の様子を克明に記した『入唐求法巡礼行記』は有名である。
アクセス:埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺