平忠度腕塚
【たいらのただのりうでづか】
平清盛の異母弟・平忠度は、平家の中にあって武勇にも優れ、また藤原俊成に師事し歌道にも秀でた才能を見せた、ある意味平家を代表する人物である。この勇将も一ノ谷の合戦で討死している。
一ノ谷の西側の大将軍であった忠度は、敗色が濃くなっても慌てず、100騎ほどでゆっくりと退却していた。そこへやって来たのは、源氏方の岡部六弥太忠澄である。忠澄の問い掛けに「味方である」と言ってやり過ごそうとしたが、お歯黒をつけていることが判り、忠澄が一騎打ちを仕掛けてきた。敵の襲来に忠度以外の騎馬武者は、寄せ集めであったため散り散りに逃げてしまった。だが、忠度の力は凄まじく、忠澄を馬から引きずり落としてねじ伏せてしまったのである。仕掛けたはずが却って窮地に陥った忠澄であるが、まさに首を掻き切られようとした時、その郎党が駆けつけて忠度の右腕を肘から斬り落としたのである。
片腕となった忠度はもはや覚悟を決め、左腕一本で忠澄を投げ捨てると、西の方を向いて念仏を唱えた。そして忠澄は念仏が終わるやその首を刎ねたのである。
ところが忠澄は、敵将が身分のある者とは判ったが、名を知らなかった。そこで箙に結わえられていた文を見つける。そこには『行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげを やどとせば 花やこよひの あるじならまし』と歌が詠まれ、忠度の名が書かれていた。忠澄が薩摩守忠度を討ち取ったことを大声で告げると、周囲の敵味方は誰もがその死を惜しんで涙したという。
細い路地のさらに奥まったところに、平忠度の腕塚と言われるものがある。切り落とされた右腕を埋めた場所とされ、十三重の石塔が軒すれすれに置かれている。この腕塚からそれほど離れていない場所には忠度の胴塚もある。腕を斬られたために命を落とした武将を哀れむ気持ちが、胴と腕とを別々に埋めて供養するという行為になったのだと感じるところがある。
<用語解説>
◆平忠度
1144-1184。薩摩守。紀伊の熊野で生まれ育ったとされ、妻は熊野別当・湛増の妹とされる。源氏との主立った戦いに参戦している。歌人としても名高く、勅撰和歌集に11首採用されている。
◆藤原俊成
1114-1204。歌人。子息の定家をはじめとして多くの歌道の門下を輩出。後白河院の勅命により『千載和歌集』を編纂する。
『平家物語』では忠度との最後の別れが描かれており、一門と共に都落ちする忠度が俊成の屋敷を訪れ、自作の歌を100首あまり巻物にしたものを手渡し、勅撰和歌集編纂の折に、相応しいものがあれば入れてもらいたいと託した。その後『千載和歌集』編纂時に、入れるべき歌はいくつかあったが、忠度が逆賊となったために“詠み人知らず”として一首だけ採用したのである。
◆岡部六弥太忠澄
?-1197。頼朝の挙兵時に源氏方に加わる。平家との戦い、源頼朝上洛、奥州遠征などにも加わっているが、平忠度を討ち取った以外には、とりたてて事績は残されていない。所領に平忠度を供養する目的の五輪塔を建てている。
アクセス:兵庫県神戸市長田区駒ヶ林