能福寺 平相国廟
【のうふくじ へいしょうこくびょう】
最澄が建立した能福寺は、平清盛と切っても切れない縁で結ばれている。太政大臣を辞して福原(今の神戸)に拠点を移し替えた清盛は、この地で出家する。その出家した場所が能福寺である。さらに清盛が京都で亡くなり荼毘に付された後、能福寺の住職・円実法眼がその遺骨を持ち帰り、その寺領内にあった八棟寺に廟を造営したとされる。
しかし廟完成直後に福原の町は焼き払われ、廟の存在は忘れ去られてしまった。新たに清盛を慰霊するものが出来たのが、弘安9年(1286年)、時の執権・北条貞時が建立した十三重の石塔(清盛塚)であり、能福寺内に墓と称するものが造られることはなかったのである。
ところが、昭和55年(1980年)になって平清盛の800年忌を機に、能福寺内に清盛の墓を再建する運びとなり、完成したのが平相国廟である。中央にあるのが、上記清盛塚を模した十三重石塔。そして右側は、清盛の側近の一人であり、能福寺住職として遺骨を兵庫に持ち帰った円実法眼の宝篋印塔。左側は、清盛の甥であり、平家滅亡後は幕府・朝廷より崇敬され、源平の合戦で焼かれた能福寺を再興した忠快法印の九重塔供養塔である。
また能福寺には、戦前には三大大仏として信仰を集めた「兵庫大仏」、大政奉還後初の外交問題となった神戸事件の責任を取って切腹した滝善三郎の墓など、歴史的見所が多くある。
<用語解説>
◆平相国
平清盛のこと。“相国”は太政大臣の唐名であり、平相国とは平家の太政大臣という意味になる。
◆清盛塚
清盛の遺体は京都の愛宕寺(現在の六波羅蜜寺の近く)で荼毘に付され、円実法眼が遺骨を運んで、兵庫の経ヶ島に埋めたとされる。清盛塚はそのため長年の間、清盛の墓とされてきた。しかし大正11年(1922年)の道路拡張工事による移転の際に調査したところ、遺骨は見つからず、墓ではなく供養塔であると判明している。
アクセス:兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町