【たかみやじんじゃ】
高宮神社の創建は古く、垂仁天皇の御代に、倭姫命が御杖代として天照大神の鎮まる地を求めて各地を巡った際、近江の「甲可日雲宮」に4年間滞在したとされるが、その論社の1つであると言われる。即ち“元伊勢”と呼ばれる社である。
平安時代に多羅尾の地は藤原氏(後の近衛氏)の荘園となる。そして鎌倉時代後期には、近衛家の御落胤とされる、多羅尾氏初代の高山太郎師俊が火産霊神(ヒノカグツチ)と近衛家の祖神を高宮神社に合祀したと伝わる。実際、現在の高宮神社の祭神は火産霊神であり、神紋は近衛家と同じ近衛牡丹となっている。
この神社の神使は狼とされており、これにまつわる伝説がいくつか残されている。
ある猟師が高宮神社へ行ったところ、礼拝所の入口で狼(あるいは猿)がお供え物を食べようとしている。鉄砲で撃ってやろうと構えると、自分のいるお堂の下から狼の鳴き声が聞こえる。気になって鉄砲を下ろすと鳴き声は止み、もう一度と取り上げるとまた鳴き声が聞こえる。結局、猟師は鉄砲を撃つことが出来ず、恐れ戦いてそのまま家に戻ったという。
神使の狼は、人を見ただけで善人か悪人かを見極める目を持っていると言われ、善人が夜道を歩いていると付き添うように歩いて身を守ってくれ、悪人が歩いているとたちまち後をつけまわして噛み付いたとされる。また夜半になると村のあちこちを歩き回り、村に異変がないかを見回ってくれるとも言われる。
<用語解説>
◆多羅尾氏
初代・高山太郎師俊の父は左大臣・近衛経平(1287-1318)とされ、多羅尾滞在中に地侍の娘との間に出来た子であると伝えられている。その後多羅尾氏は甲賀武士五十三家の最有力家として勢力を伸ばし、織田信長に仕える。本能寺の変直後には徳川家康の伊賀越えを助け、また賤ヶ岳の戦い後は豊臣家に臣従して8万石の大名となる。しかし豊臣秀次の失脚によって改易(娘が秀次の側室であるなどの理由による)、秀吉死去後に家康の計らいによって旗本衆に加わる。江戸時代には世襲の代官に任ぜられ、信楽の地に代官所を設けて在地のまま畿内の天領を管轄した。
なお多羅尾という土地の名称であるが、“羅尾”という100年単位で生きて煙を好む、温順で大きな獣(あるいは鳥?)が棲息したことによるとの説がある(『天平永国記』より)。もしかすると狼と何か関係があるのかもしれない。
アクセス:滋賀県甲賀市信楽町多羅尾