【すぎのおじんじゃ】
一本に延びる石段、そして高台にある境内は広く、社殿も相当に立派で大きい。言い伝えによると欽明天皇の治世(539~571年)に創建され、鎌倉時代以降の中世には庄内地方を治めていた武藤(大宝寺)氏が崇敬、その後もこの地を領有した大名が寄進をおこない、明治になって県社に列した経歴を持つ。
よく整備された石段の途中の左右両脇には、簡素な覆屋をされて阿吽の犬の像がある。この神社の例大祭である“大山犬祭”の主役である“めっけ犬”である。
かつて、この神社の裏山となる高舘山に化け物が棲み着き、毎年祭りの日に若い娘を差し出さないと田畑を荒らし回るため、白羽の矢が立った家では泣く泣く娘を生贄としていた。そのような祭りの時に旅の六部がその話を聞いて、化け物の正体を確かめようと、真夜中の神社の境内に隠れて様子を見ていた。
生臭い風が吹くと、大入道が2体現れた。お互いを“東の坊”“西の坊”と呼び合い、早速娘を籠から引きずり出すと、「このことを丹波の“めっけ犬”に聞かせるなよ」と上機嫌で言いながら、俎の上で真っ二つにしてしまった。そして“東の坊”が娘の頭の方を、“西の坊”が足の方をそれぞれもらうと「また来年」と言いながら消えていった。
大入道の弱点が“めっけ犬”であると悟った六部はすぐに丹波へ赴き、その名を持つ犬を探した。そして何とかその犬を見つけた時には、間もなく祭りが始まる頃であった。急いで六部は“めっけ犬”を連れて戻り、事情を話して娘の代わりに“めっけ犬”を籠に入れて神社の境内に置いて夜を待ったのである。
翌朝、村人達が境内にやって来ると、“めっけ犬”が血まみれで息絶えていた。そしてその横には2匹の大狢が噛み殺されていた。化け物の正体は大狢で、見事に“めっけ犬”が退治したのであった。村人は命懸けで戦い死んだ“めっけ犬”を丁重に葬り、神社と村の守護神として崇敬することとしたのである。
この伝説に基づいておこなわれる“大山犬祭”は300年以上の歴史を持ち、“めっけ(滅怪)犬”をかたどった犬の像を曳きながら大名行列などが練り歩く、庄内地方を代表する祭となっている。
<用語解説>
◆武藤(大宝寺)氏
鎌倉時代に庄内地方の大泉荘の地頭として土着。武藤姓から大泉姓、さらに大泉荘の大宝寺城を居城としたため、大宝寺姓と改めた。室町後期の12代当主の政氏以降は、羽黒山の別当職も兼務している(椙尾神社にも月山神や大物忌神を勧請している)。戦国末期に登場した親上杉の義氏の時代が最盛期であったが、出羽の最上氏などとの抗争に敗れ没落した。
アクセス:山形県鶴岡市馬町宮ノ腰