【だるまじ】
様々な伝説を持つ聖徳太子であるが、『日本書紀』推古天皇条に次のような逸話が残されている。
推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子は片岡山というところへ遊行に出たが、そこで行き倒れの者を見つける。名を問うが返事はなく、太子は飲食物を与え、さらに自分の着物を脱いで羽織らせた。さらに安らかに寝ているよう言葉をかけて立ち去った。
翌日、太子が昨日の行き倒れの者の様子を見に行かせると、既に死んでいたとのこと。太子は棺に納めてその場に埋葬するよう言いつけた。さらに数日後、太子は先日の行き倒れの者はおそらく聖に違いないので、墓を見に行くよう命じた。使いの者が墓を掘り確かめると、棺の中はもぬけの殻で、太子の着物だけがきれいに畳んで上に置かれていたという。太子はさらに使いの者をやって着物を持ち帰らせると、普段通りそれを着て過ごしたという。
この逸話は、さらに壮大な伝説によって色付けられる。この行き倒れの者の正体は実は達磨大師であるとされ、聖徳太子と出会うべくして邂逅を果たしたというのである。
聖徳太子が稀に見る聖人であったという話が広まると同時に広まったのが、「太子の前世は中国天台宗開祖の師である南嶽慧思である」という説である。
慧思が衡山の寺院にあった時、訪ねてきたのが達磨大師であった。達磨は慧思に向かって「海の東にあるところへ行って、仏法の教えを広めて欲しい。私は先に行って待っている」と言い、それに応えた慧思は聖徳太子として転生したのだという。それ故に、慧思の生まれ変わりである聖徳太子が聖とみなした行き倒れの者はまさしく達磨大師の生まれ変わった者(化身)であると人々は考えたのである。
現在、片岡山と推定されている場所にあるのが、達磨寺である。達磨寺の境内には達磨寺古墳群があり、その3号古墳が行き倒れの者(片岡飢人)の墳墓であるとされ、その上に本堂が建てられている(ということで、古墳を見ることは不可能である)。他にも2人の邂逅の伝承地として、飢人が持っていた竹杖を挿したところ一夜で成長したという「一夜竹」や、聖徳太子と飢人がそこに座って歌を詠みあったという「問答石」(写真は飢人が座った達磨石)がある。
さらにこの達磨寺には聖徳太子ゆかりの伝説がもう1つある。それが達磨寺1号古墳と呼ばれる古墳に葬られたという伝説が残る、聖徳太子の飼っていた犬・雪丸である。雪丸は人間と会話したり、経を読むことが出来た犬とされている。また境内にある雪丸の像が元日に吠えると、その年は豊作になるとも伝わる。
その他にも松永久秀の墓など、それほど広くない境内には数多くの伝承が残されており、非常に興味深い寺院である。
<用語解説>
◆南嶽慧思
515-577。中国河南省の出身。天台宗の開祖・智者大師の師にあたる。慧思は生前より、自分は何度も転生してきた身であり、今が6世にあたる。そしてまたいずれ生まれ変わることを予告している。これが聖徳太子への転生の伏線となっている。
◆達磨
生没年不明。南天竺の王子であったとされ、後に中国へ渡り仏教を広めた。禅宗の祖として知られる。生没年は不明であるが、528年頃に入滅したと記した史書もあり、慧思と直接対面したかはかなり疑問がある。
◆南嶽慧思後身説
上にあるように、慧思は生前より転生を予告しており、その噂は広く知られていた。特に東の海の越えたとこ(倭国)へ転生したと信じられる向きが強く、奈良時代に鑑真が日本へ戒律を伝えようと決意した背景にもこの伝説があると考えられている。
◆松永久秀
1508-1577。元は三好長慶の家臣であったが、主家を上回る権勢を持ち、大和信貴山城主となる。その後、2度にわたり織田信長に反旗を翻したが、最期は天守閣もろとも爆死したとされる。寺伝によると、達磨寺の墓は筒井氏が亡骸を運び埋葬したものとされている。
アクセス:奈良県北葛城郡王寺町本町