【なかやまじんじゃ さるじんじゃ】
津山市にある中山神社は美作国一之宮として崇敬されている。社伝によると、創建は慶雲4年(707年)、主祭神は鏡作神となる。しかし『続日本紀』では美作国が備前国から分立した和銅6年(713年)の創建とされていたり、またかつて“吉備国”とされてきた備前・備中・備後国の一之宮が全て吉備津彦命を主祭神に勧請していることなどから、中山神社も美作国が立国された時にこの神を意図的に勧請してきた神社である可能性が高い。それどころか、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話の世界では、中山神社の神は“猿神”と明確に指摘されている。
『今昔物語集』第26巻7話には、次のような話が残されている。
中山神社の祭神は“猿”であるが、毎年、未婚の処女を生贄として供えていた。その年もある家の娘が生贄に選ばれた。そこへ東国からやって来た男が用あって、その娘の家を訪ねた。男は泣き伏す娘を見てその事情を問い、娘を貰い受ける代わりに自分が死のうと言い出した。ならばと両親は男を娘の婿とした。
男は犬を使って山で猟をすることを生業としていた。男は飼っている犬の中から2匹を選りすぐり、密かに猿を生け捕りにしては食い殺す訓練を重ねた。その甲斐あって、2匹は命ぜられなくとも猿を見ると飛びかかって噛み殺すまでになった。
そして祭りの日。生贄を入れる長櫃が到着すると、男は刀を携え、2匹の犬を脇に置いてその中に入った。何も知らない村の者は長櫃を社に運んで、扉を閉めた。間もなく人ほどの大きさの大猿とその配下100匹ほどの猿が社に現れた。そして俎や調味料を準備して、やおら長櫃を開けようとした。
その瞬間、長櫃から男は飛び出すと大猿を俎に押し倒し、その首に刀を当てると、「お前らが人を喰うように、お前の首を刎ねて犬の餌にしてやろう」と言い放つ。大猿は恐怖に怯え命乞いをするが、男は意に介さない。そうしているうちに、2匹の犬はあたりにいる子分の猿を次々と噛み殺していく。逃げ延びた猿が泣き叫び山全体が騒然となる中で、男は「お前が神であるならば、俺を殺してみよ」とさらに大猿に迫った。
そのうちに社の外に待機していた神主の一人が神懸かり「我は今日より生贄を取らず、殺生をしない。またこの男に危害を加えるようなことをしてはならぬし、生贄となった女とその家族にも手を出してはならない。とにかく我の命を助けたまえ」と懇願しだした。だが男はこれを無視し、ただ「猿を殺して、自分も命を絶つ」と言い張る。神主たちはあれこれと言い含め、ようやく男は大猿を解き放したのである。そしてそれ以降、生贄を出すことはなくなり、男をはじめその家族も平穏に暮らしたという。
現在でも、中山神社の本殿の裏に当たる位置に猿神社と呼ばれる小祠が祀られている。さほど距離はないが、社殿付近と比べるとあまり人の手が加えられておらず、切り立った斜面を登った場所にある。それはあたかも神社の奥の院のような印象を受ける。
『今昔物語集』に描かれた“猿神”とは、おそらく現在の中山神社が勧請される前にあった自然崇拝の象徴ではないかと想像を逞しくする。美作国が立国されるに際し、敢えて土着の信仰が最も強い聖地に新たな神(彼らは大和国、すなわちb吉備国から見て“東”に当たる地から来た者)を勧請したとも考えられる。ただし彼らは土着の神を殺さず、取り込んだ。それが“猿神社”という存在なのかもしれない。
<用語解説>
◆『今昔物語集』
全31巻。1000編を超える説話集。平安時代後期、天永~保安年間(1110~1124年)頃に成立したと考えられる。また作者も不明。
アクセス:岡山県津山市一宮