【かもんのつか】
但馬を代表する円山川の中流に位置する旧・八鹿町の北端部にあたるのが宿南の地である。承久の乱(1221年)後に勢力を伸ばした八木氏の一族が当地を治め、宿南姓を名乗ったとされる。南北朝時代には初めは南朝、後に北朝に転じて所領を維持。応仁の乱(1467年)の際には、同族の八木氏と共に山名氏に加担した記録が残る。しかし天正5年(1577年)の羽柴秀吉による但馬攻略の時に一族の大半を失って武家としての歴史は終わる(一説には天正8年の八木城陥落と同時とも)。小領主として300年近く宿南を支配したこの一族の歴史については、文化文政期(1804~1830年)に成立したとされる『掃部狼婦物語(かもんろうふものがたり)』という小説に詳しく語られている。だが、この虚実ない交ぜとなった物語の心髄は、この題名にあるように、狼にまつわる伝説にある。
南北朝時代の初め、宿南の地にやって来た田垣掃部は宿南氏の家臣となった。その孫の代には、屋敷にあった大木から高木掃部と名乗るようになった。文安(1444~1449年)頃の春、掃部の妻の綾女が供を連れて花見に行った時のこと。行く手から狼の唸り声が聞こえてきた。近くを探すと、落とし穴にはまった狼の親子を見つけた。共の者が射殺そうとすると、綾女は無益な殺生をしないよう押しとどめた。さらに狼に「私は掃部の妻である。おまえの難儀を見捨てるには忍びず、助けようと思う。ゆめゆめ人に危害を加えることのないよう」と諭し、穴から救い出した。狼は綾女の言葉を理解したかのように子を連れて森に去って行ったが、それ以降、掃部の田畑には害獣の被害が起こらなくなった。人々は綾女が狼を助けたためであると噂した。
宝徳(1449~1452年)になると、綾女は病を得て亡くなり、掃部は後妻をもらうように進言を受ける。家宰の沢右衛門は京都にいる自分の妹を後妻に勧めたが、掃部は拒否。だが、高木家乗っ取りを企む沢右衛門は、妹を連れてくると無理に京都へ旅立っていく。しかもその時に、高木家の家宝である“天国(あまくに)の短刀”を盗み出し、実は自らが売り飛ばした妹を身請けする軍資金として、道中で出会った修験者に売り飛ばしてしまったのである。そして京都に着いた沢右衛門であるが、既に妹は別の男が身請けして夫婦になっていた。そこで妹が一計を案じ、亭主の姪が年格好が似ていることから、これを替え玉にして高木家の後妻にしようと言い出す。沢右衛門も同意して姪を連れ帰ると、牧という名で侍女として掃部のそば近くに詰めさせたのである。やがてかいがいしく働く牧に対して先妻の子もなつき、掃部もついに再婚を決め、新たに子供をもうけるまでとなったのである。
着々と御家乗っ取りを謀る沢右衛門は、牧が後妻に収まると本格的に行動を起こす。自分の企みに気付いた高木家の忠臣を亡き者にすると、いよいよ先妻の生んだ嫡男に呪詛を仕掛けることに成功するのだった。ところが、それから暫くして、沢右衛門は不慮の死を遂げる。道中で狼に襲われて落命したのであった。
それから暫く経った寛正(1460~1466年)の頃、伯州の修験者・威妙院は、宿南の近くにあった妙見山を参拝した帰りの夜道で狼の群に襲われた。木に登って難を逃れようとするが、狼は梯子のように肩車をして威妙院のそばまで襲いかかってくる。威妙院も懐に隠し持っていた宝剣を手にすると狼を斬りつけた。すると「かもん、かもん」と呼び声がして、頭目と思しき一際大きい狼が現れ、狼の梯子をよじ登って威妙院に襲いかかった。負けじと威妙院が宝剣で薙ぐと、頭目の狼の額が切り裂かれ、群は散り散りになって消えていった。しかし、守り刀の宝剣は頭目によって奪い取られてしまってのである。
翌朝、威妙院は昨夜耳にした謎の言葉を頼りに、最寄りの宿南の地を訪ねた。「かもん」とはおそらく高木掃部のことであろうとすぐに察しがつくと、屋敷を訪ね、昨夜異変がなかったかを訊いた。すると、掃部の妻の牧が昨夜厠で足を滑らせ、額に大怪我を負ったという。まさしく昨夜の狼の変化と見抜いた威妙院は、早速主人の掃部に事の子細を伝えた。話を聞いても半信半疑の掃部であったが、そこへ妻の牧が現れるや居住まいを正し深々と頭を垂れて、その正体を語り出したのである。
「お察しの通り、私は狼。前の奥様に命を助けていただいた狼でございます。沢右衛門の悪事に気付き、高木家の行く末を案じ恩に報いようとしておりましたところ、諏訪大明神の神徳によって人の姿となり、牧を亡き者にして自らが代わりを務めながら、遂には沢右衛門も討ち果たすことが出来ました。しかし沢右衛門が盗んだ家宝の“天国の短刀”が見つからず探していましたところ、ここにおられる威妙院様がお持ちと分かり、恥ずかしながら力尽くで奪い取ろうと昨夜襲ったのでございます」
事情を知った掃部と嫡男は、たとえ正体が狼であったとしてもこの屋敷に居続けるように引き留める。しかし狼は、正体が知れてしまった以上は人の世には住めぬのが定めと言うや、その姿は煙のように消えてしまったのである。そして掃部親子が寝所を改めると、床下から額に一太刀浴びた大きな狼の遺骸が横たわっていた。親子はこの遺骸を棺に納める、人として葬ったという。そしてその後、嫡男は近くの養父神社に狼を祀る社を建立し、“天国の短刀”を妙見山にある日光院に奉納したとされる。
かつて高木掃部が住んでいたという屋敷跡の地には、明治22年(1889年)に建てられた“掃部之塚”がある。かつて明治の初め頃までこの地には神社があり、また宿南では流行病が起こると、養父神社の摂社である山野口神社(狼の宮)よりお札を貰って祈祷したとも伝わる。その他にも日光院には狼の姿を描いたお札の版木が残されており、この周辺一帯には“狼信仰”が根強く残されている。おそらく『掃部狼婦物語』は、これらの狼信仰を包括し、その信仰の源泉として集約された“伝説”と考えるべきなのだろう。
<用語解説>
◆八木氏
但馬にあった古族・日下部氏の末裔。承久の乱後、嫡流であった朝倉氏に代わって八木氏が台頭し、養父郡に勢力を持った。その後も但馬守護の山名氏の重臣(山名四天王)として有力国人であったが、戦国末期になって毛利氏についたため、羽柴秀吉の侵攻を受ける。その後秀吉の傘下となるが、毛利氏との攻防に敗れ、宗家は姿を消す。また宿南氏同様、高木掃部の元の姓である田垣氏も八木氏の庶流とされている。
◆日光院
養父郡の西にある妙見山の中腹にあった寺院。明治の神仏分離により、妙見山の麓に強制的に移転させられる(現在、日光院のあった場所には、かつての伽藍などを残したまま名草神社が建っている)。かつて八木氏は日光院に深く帰依しており、田などを寄進した記録が残されている。言うならば、日光院の“狼信仰”が八木氏が領した養父郡に広く浸透した背景でもある。
◆養父神社・山野口神社
養父神社は但馬三之宮、延喜式の名神大社である。山野口神社は摂社であるが、拝殿の神名額には「養父大明神・山野口大明神」と併記されている。また宿南では、山野口神社には“掃部さんの守り本尊”が預けてあるとも言い伝えられており、これも“狼信仰”の根強さを示していると言えるだろう。
アクセス:兵庫県養父市八鹿町宿南