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犬坊の墓

【いぬぼうのはか】

阿南町役場の近く、国道151号線沿いに位置するのだが、非常に分かりにくい場所にある。具体的に言うと、阿南消防署の南にある“牛久保橋”の南端にある、下り坂になっているコンクリート舗装の脇道を歩いて下りて行き、道なりに橋の下をくぐって行けば行き当たる。田んぼに面した道の横に石積みの祠があるので、道さえ間違わなければ分かりやすい。

武田信玄が信濃侵攻を開始する直前、この下伊那地方も戦国のならいとして有力領主の攻防が繰り広げられていた。今の阿南町周辺は関氏が治めていた。5代当主の盛永は領土拡張を勢いに任せて進め、特に北側で敵対する下条氏との戦いに備えて、わずか5年のうちに3つの新しい城を築いていた。この性急な伸張策は当然領民の怨嗟の種であった。城の普請に駆り出され、怠けると荊の鞭で叩かれる懲罰を喰らい、さらには婚姻にまで課税をして金品を取り立てるなどの苛政が行われた。さらには罪のない者を鉄砲で撃ち殺すなどの悪行も重なり、家臣からも信用を失っていったのである。

そこに乗じてきたのが、敵対する下条氏である。関氏の家臣から内応者を募り、ついに天文13年(1544年)宴席で酔いつぶれた関盛永を討ち果たしたのである。その時に一番の手柄を立てたのが、盛永の小姓であった。まだ18になったばかりの若者であったが、主君が反撃出来ないようにと愛刀の目釘を抜き、さらに弓の弦を全て切っておいた。さらには台所の竈の陰に潜んで、襲撃が始まるのを待った。そして襲撃が始まり、台所に逃げてきた盛永の脇腹から肩口にかけて槍を深々と刺し抜いて致命傷を負わせたのである。

この抜群の功績を認められ、大小の刀などを拝領し意気揚々と引き揚げる小姓であったが、途中で白犬と出くわすと突然「盛永殿が出た」と叫びだし、犬に向かって刀を抜いて斬り掛かった。周囲の者も刀を振り回す小姓に近づくことも出来ず、ただ成り行きを見守るしかなかった。しばらく犬と対峙して暴れ回っていた小姓であったが、足を滑らせて地面に倒れ込んだ。その一瞬、白犬は小姓に飛びかかると、いきなり喉笛に食らいついた。そのまま絶命する小姓。あたりは騒然となったが、いつの間にか犬は消えてしまっていた。

悪辣な主君ではあるが、寵愛を受けていた者があっさりと裏切って死に追いやった報いだったのであろうと、人々は噂した。そしてこの小姓を葬ったが、いつしか“犬坊の墓”と呼ぶようになったという。

祠の中には、今でも丁寧に祀られているのが分かるように、新しい御幣が置かれている。そして古い石像が安置されているが、よく見ると、その頭の上には犬の頭が乗せられている。いかなる目的の祠であるかは想像に難くないところである。ちなみにこの逸話を題材として、井上靖が昭和32年(1957年)に『犬坊狂乱』という短編を上梓している。

<用語解説>
◆関氏
伊勢に勢力を持っていた関氏の支族であり、文安5年(1448年)この地へ落ち延びてきたとされる。現在の道の駅信州新野千石平の付近に城を構え、一時期は近隣の村々も領有した。5代目の盛永の時に、下条氏の急襲を受けて滅びる。

◆下条氏
甲斐源氏武田氏の傍流とされる。応永元年(1394年)頃に、現在の下條村付近に土着。信濃守護の小笠原氏から養子を取って、勢力を伸張し、時氏の代に関氏を滅ぼして下伊那一帯を領有する。その後伊那に侵攻した武田氏に服属、時氏の子の信氏は、信玄の妹を娶り義兄弟となるなど優遇された。武田氏滅亡時には、親族に土地を奪われるが、徳川氏の援助を受けて復帰。しかし度重なる失態のため没落する。

アクセス:長野県下伊那郡阿南町西條

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