【しんじゅいん やえひめみどう】
『吾妻鏡』によると、安元元年(1175年)、当時の伊豆で親平家の豪族として勢力を持ち、伊豆に配流となった源頼朝の監視をしていた伊東祐親が頼朝殺害を企て、頼朝が伊豆山神社へ逃げ込むという記録が残っている。この原因について『曽我物語』では次のような逸話が残されている。
伊東祐親の三女である八重姫は美貌の持ち主であったが、父が京都へ大番役として3年間上洛しているうちに、頼朝と懇ろな間柄となって千鶴丸という男児までもうけたのである。ところが、祐親が伊豆へ戻って事態を知ると、激怒。「今時に源氏の流人を婿に取るなら、娘を非人乞食にやる方がましだ。平家の咎めを受けたら何とするのか」と言い放ち、まだ幼子であった千鶴丸を簀巻きにして生きたまま川に沈めてしまったのである。そしてその怒りの矛先を頼朝に向けたのである。
だが、祐親の次男の伊東祐清は、義理の母が頼朝の乳母であった関係で、頼朝に事態を告げて父の追っ手から逃がしたのである。さらに祐清は、自分の烏帽子親(元服時に仮親として、名を与える者)に当たる北条時政の屋敷に頼朝を匿ってもらうこととした。結局、それが縁で頼朝は北条政子の求婚を受け入れ、時政も子(長女)が出来てしまったために2人の関係を許したのである。
一方、八重姫は父によって頼朝と強制的に離別させられ、さらに我が子までも失ってしまう。しかし、それでも八重姫は頼朝のことが忘れがたく、遂に治承4年(1180年)に侍女を連れて屋敷を抜け出し、頼朝が匿われているという北条の屋敷を訪ねたのである。
その結末は無惨なものとなった。この時になって初めて八重姫は頼朝と政子が結ばれており、殺された我が子と同じくらいの年頃の娘までいることを知ってしまう。もはや伊東の屋敷にも戻ることは出来ず、進退窮まった末に選んだのは、激流の渦巻く真珠ヶ淵へ身を躍らせることのみであった。
今では護岸工事ですっかり様相の変わってしまった真珠ヶ淵に面するように真珠院が建てられている。その山門をくぐったところにあるのが、八重姫を祀った八重姫御堂である。そのお堂の一角には、小さな梯子がいくつも置かれている。これは“梯子供養”と言い、八重姫が入水した時にせめて梯子一本あれば助けられたかもしれないという村人の無念の気持ちから始まったものである。願い事が叶った時に必ずお礼参りとして梯子を奉納することになっているという。
また境内には、八重姫と共に命を絶った6人の侍女を供養する“八重姫主従七女之碑”もある。
<用語解説>
◆伊東祐親
?-1182。伊豆の在庁官人として平家に仕え、北条時政と共に源頼朝の監視を命ぜられた。頼朝挙兵後も平家に味方し、富士川の合戦の折に捕らえられる。その際に助命されるが、それを潔しとせず「以前のおこないを恥じる」と言い残して自害する。このおこないが、安元元年に頼朝を殺害しようと企んだことを指すとされる。
ただしこの頼朝暗殺の真相が三女の八重姫に端を発したかについては不明であり、八重姫の存在自体が伝承の域を出ないものとされている。
◆伊東祐清
?-1183。伊東祐親の次男(長男の河津祐泰は暗殺されており、実質の嫡男)。源頼朝の乳母である比企尼の三女が妻であるため、伊豆の豪族の中でも頼朝に近い人物であった。しかし、頼朝挙兵後は父と共に行動し、富士川の戦いで捕らえられる。頼朝の命を救った恩賞を固辞し、釈放されると、再び平家軍に身を投じて北陸を転戦。最期は篠原の合戦で討死。
アクセス:静岡県伊豆の国市中条