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志和天満宮 槿花の宮

【しわてんまんぐう きんかのみや】

志和天満宮は、伊予河野氏の一族がこの地に定住した後、現在地の裏山にあった城の守り神として北野天満宮から勧請して創建され、地域の鎮守となった神社である。その社殿と並ぶように建てられている境内社が槿花の宮である。『土佐物語』には、この槿花の宮創建にまつわる志和氏の姫の悲劇が記されている。

大永年間(1521~1528年)頃、志和城主であった志和和泉守則重にはお万御寮という才色兼備の娘があった。当時この地域を治めていた有力国人“仁井田五人衆”であった和泉守は、同じ五人衆に数えられていた西原紀伊守重助の許へ娘を嫁がせたが、2人の仲は大層睦まじいものであった。

ところがある時、お万御寮は離縁して欲しいと突然重助に訴えた。訳を尋ねると、お万御寮はここのところ毎夜のように起こる怪異を告白した。

夜な夜な見目麗しい若者が名も告げずに床に現れ、自分に求愛してくる。初めは頑なに拒否していたが、ついには心を許してしまった。その移り香の生臭さから魔性のものであることは間違いない。そして魔性のものに見初められ、身体を汚された身となった以上、夫に仕えることは叶わずとさめざめと泣く。しかし重助としてみれば、毎夜床を並べて寝ている妻の許に妖しいものが近寄る気配を感じたことはなく、おそらく気のせいであろうと慰め、加持祈祷をおこなわせるだけで留めた。

そして暫くしたある夜、重助と語り合っている最中に突然お万御寮は立ち上がると、庭に出て空中を滑るように歩いていき、そのまま城の塀を越えて、大蛇に身を替えると真下にある“鵜の巣の淵”へ身を投げてしまった。大永7年(1527年)3月22日のことであったとされる。

その後、志和氏の下僕・次郎介が淵の上流で草刈りの途中、持っていた鎌をなくして探しているうちに、見慣れぬ人家があるのに気付いた。中に入るとお万御寮がおり、馴染みの小者を見ると「鎌はここにあるので早々に戻りなさい。私は最早人ではないので戻れないが、息災であると父にだけ伝えて欲しい。隣の部屋には子供もおります」と言い、そっと隣の部屋に眠っている蛇を見せた。次郎介は戻ると、主人にその旨を伝えたが、その後同輩らにも話したため、正気を失いその日のうちに失踪したという。

実父の和泉守は大いに嘆き、娘のために一社を設けて供養するしかなかった。そして、人の命の儚さを意味する“槿花一日の栄”の故事から槿花宮と名付けたのであった。

<用語解説>
◆『土佐物語』
宝永5年(1708年)に吉田孝世が著した軍記物。一条氏の土佐下向以降の長宗我部氏の事績を記述している。槿花の宮の逸話については、仁井田五人衆を従えた後、志和の地を訪れた長宗我部元親が地元の古老から聞いた話として記されている。

◆西原紀伊守重助
生没年不詳。長宗我部元親に臣従している記録が残っているため、元親がこの地一帯を領有したとされる元亀2年(1571年)には存命であったようである。

アクセス:高知県高岡郡四万十町志和

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