【おおむらじんじゃ】
伊賀市阿保にある大村神社の祭神は、大村神こと池速別命であり、11代垂仁天皇の皇子であるとされる。天照大神を奉じて各地を廻った倭姫命の弟、また全国各地へえ征討した日本武尊の叔父に当たり、記紀にもこの池速別命が阿保の地に定住したとされ、現在でも近くに陵墓がある。
この土着の神とと共に相殿に祀られているのが、武甕槌神・経津主神である。この両神は、神護景雲2年(768年)に春日大社が創建される折、常陸・下総国から平城京にやって来る途中、この地で休息したと伝えられる。その際に両神が社に奉納したのが“要石”である。
鹿島神宮・香取神宮にもある、大鯰の頭を押さえつけ地震を抑えるとされる“要石”は、大村神社の拝殿横の小社に祀られている。大村神社では古くから地震除けのご利益があるとされ、「揺るぐとも よもや抜けまじ 要石 大村神の あらん限りは」との呪文と共に広く信仰されている。地面から突き出た“要石”の形は、まさに鹿島神宮・香取神宮のそれを彷彿とさせるものである。そして嘉永7年(1854年)に起こった伊賀上野地震の際、伊賀国内では甚大な被害があったが、大村神社のある阿保だけはさほど酷い状況ではなかったとされ、これも要石のおかげであると言い伝えられている。
さらに境内には、かつての神宮寺の名残として鐘楼があり、その中に立派な鐘がある。しかしよく見るとこの鐘の上部にあるはずの“乳”と呼ばれる突起物が全て失われているのが分かる。このためこの鐘は日本三大奇鐘の一つ“虫食い鐘”と呼ばれ、奇怪な伝説が残っている。
寛永年間(1624~1644年)の頃、大村神社の神宮寺であった禅定寺で鐘を鋳造するため、伊賀国を始め近隣諸国へ勧進をおこなった。その時、大和国葛城のある豪農の家から一面の鏡の寄進があった。代々秘蔵の鏡であったが、ある時一人娘が鏡を見たいと言い出して与えたところ、それ以来片時も鏡を離さず遂には衰弱死してしまった。その供養のため鏡を手放し寄進したのであった。
鏡は他の寄進された鉄類と共に鋳込まれ、立派な鐘が出来上がった。しかし鐘を撞くようになってから、禅定寺の僧の夢枕に一人の女性が立って「あの鐘には私の魂が入っている」と言うようになった。最初は夢に過ぎないと思っていたが、そのうち鐘の周囲を女の亡霊が徘徊し、時には鐘を愛おしそうにさする姿が目撃されるようになった。そしてその奇怪なことが始まってから、鐘の乳が腐食して次々と地面に落ちるようになったという。
あるいは別伝では、鐘鋳造の勧進の際に、大切な鏡を知らないうちに寄進された娘が、それを苦にしたまま亡くなった。鐘が出来ると、死んだ娘は虫に転生し、鐘の表面を這いずり回ると、鐘の乳を溶かして落としていったとも言われる。いずれにせよ、鏡に魅入られた娘の執念が鐘の乳を腐らせた怪異であるとされる。
アクセス:三重県伊賀市阿保