【あらしやまたきじんじゃ】
筑後川水系の支流で玖珠郡を中心に流れる玖珠川にある滝の一つ、三日月の滝の横に嵐山瀧神社はある。現在の主祭神は宗像三女神であるが、それと共に祀られているのが小松女院である。元をただせば、この神社は小松女院を祀るために建立されている。
小松女院は醍醐天皇の孫というやんごとなき身分であったが、ある時から清原少納言正高という笛の名手と心を通わせるようになった。しかし正高は貴族であってもさほど高位の者ではなく、その身分不相応のため豊後介に任じて左遷させ、小松女院も因幡国へ隠棲を強制されたのである。
それから数年後、小松女院は因幡にあっても正高のことが忘れられぬ、ついに侍女11名らと共に密かに豊後国へ旅立った。一行は途中乳母を病で亡くし、肥後国を回り、数ヶ月掛けてようやく豊後の玖珠郡にたどり着いた。
ちょうどそこに通りがかったのは、一人の年老いた木樵。侍女の一人が声を掛けて、その所在を尋ねた。木樵はいとも簡単に答えた。「正高様は郡司の矢野久兼様のご息女を娶られ、お子もおられます」
そばで聞いていた小松女院は不意に立ち上がると、
「笛竹の ひとよの節と 知るならば 吹くとも風に なびかざらまし」
と歌を詠むと、そのまま滝に飛び込んだ。それを追うように侍女たちも全員滝に身を投げてしまったのである。
知らせを聞いて慌てて駆けつけた正高であったが、既に小松女院を始め全員が亡くなった後のことだった。泣く泣く埋葬を済ますと、女院が入水した滝のそばに一社を建立し祀った。
一方、何も知らず問われるままに答えたことで高貴な者を死なせてしまった木樵は、その自責の念からついに同じく川に入水して亡くなった。正高はこれも憐れみ、新たに建立した神社の境内に木樵堂を設け、神社の守護をするよう祀った。
嵐山瀧神社の境内の一角には今も小松女院の墓所があり、入水をした日を祭日として大祭が執りおこなわれている。
<用語解説>
◆小松女院
醍醐天皇の孫に“小松女院”と称される女性は実在する。醍醐天皇第13皇子・章明親王の姫・隆子女王である。しかしこの人物は、安和2年(969年)に伊勢斎王に選ばれ伊勢に赴いたが、任期中の天延2年(974年)に病で亡くなっているため、伝説とは無関係である。
◆清原正高
?-1027。清原元輔(908-990)の子とされる(つまり清少納言の兄にあたる)が、一説では曾孫とも言われる。豊後介として天延元年(973年)に任国に赴き、郡領の矢野久兼の娘を娶ったのは史実とされ、その子孫が豊後清原氏として戦国時代まで玖珠地方を治めていた。
アクセス:大分県玖珠郡玖珠町山浦