【そうりゅうじ りゅうぐうのかね】
寛延4年(1751年)、越後国高田を中心とした大地震が起こった。この地震では高田城下をはじめ約1000~2000人が死んだとされるが、とりわけ被害が酷かったのが小泊村であった。いわゆる“名立崩れ”と呼ばれる、海岸段丘がほぼまるごと崩落するという大惨事が起こっている。現在でも名立崩れの跡を確認することは可能であり、幅1km、高さ100m以上の台地部分が崩落したことが分かる。
記録によると、小泊村にあった91軒のうち3軒を除いて全てが土砂に押し流され、海中に沈んだ。そして406名が亡くなったとされ、村は壊滅状態となったのである。再び元の村の状態に戻ったのは幕末から明治にかけて頃。100年以上の時を経てようやくであった。
名立崩れの悲劇を今に伝える遺物が宗龍寺にある。高さ約1mほどの梵鐘であるが、数奇な運命をたどって現在に至っている。
名立崩れから数十年ほど経った頃、この付近の海の中から奇妙な海鳴りがするという噂が立った。その不気味な音に人々は「名立崩れで海中に沈んだ人々の無念の声である」とか「海の神様の怒りの声だ」と信じて、ほとんど近寄ろうとしなかった。明治の初め頃になって、ある者がその音の正体を確かめようと海に潜ってみたところ、海の底の岩に挟まれて沈んでいた梵鐘を見つけたのであった。潮流の加減によって梵鐘が鳴っていたのである。人々はこれを引き揚げて、再び宗龍寺に奉納した。そして名立崩れで沈んだ鐘が奇跡的に元に戻ったのは、乙姫が奉納したためだとされ、この梵鐘は「龍宮の鐘」と呼ばれるようになったのである。
それから時が経ち、戦時中に金属供出の危機が訪れたが、この梵鐘の由来を知る地元名士が奔走して供出延期を勝ち取り、ついに終戦を迎えたという逸話も残る。
龍宮の鐘は、名立崩れによって流された時の衝撃で、本来64個あるべき乳(梵鐘上部にあるイボのような突起物)が27個欠けている。しかし桃山時代以前に造られたとされる梵鐘は音色も良く、除夜の鐘として時折鳴らされることもあるらしい。
<用語解説>
◆名立崩れ
古文書や地質学の面からこの大崩落の全容は明らかになっているが、この大災害が起こった時の伝説が今でも残っている。
空が大火事になったように赤くなったり、昼というのにどんよりと暗くなったりする日が続いていた折、ある旅の僧が小泊の村に訪れた。村人が天気の異変について尋ねると、僧は「古来よりこういう異変がある時は、天地がひっくり返り、村が丸ごと飲み込まれる前兆」だと答えた。村人はそれを聞いて怒り出して僧を追い払ったが、お今という娘だけはそれを信じて、僧の言う通り、その夜に村を逃げ出した。そしてその夜、名立崩れが起こり、村人の中でたった一人生き延びたお今がこの惨事を役所に伝えたのだと言われる。
現在、宗龍寺のすぐ近くに名立崩れで亡くなった人々のための慰霊碑「名立崩れ受難者慰霊碑」がある。
アクセス:新潟県上越市名立区名立小泊