【おおくらじんじゃ/おりののひ】
関川村には、越後と米沢を結ぶ旧街道が通っている。その国境にあるのが大里(おおり)峠である。この峠には大蛇にまつわる伝説が残されている。
ある時、この街道を蔵の市という名の琵琶法師が越後に向かって歩いていた。ちょうど大里峠で夜になったため、一服がてら琵琶をかき鳴らしたところ、もう一曲と所望する女の声がする。不思議に思いながらも望みのまま語り終えると、女が正体を明かした。
女はかつては人間だったが、大蛇に変化したものだと名乗った。そして今棲んでいるところが手狭になったので、一番川幅の狭い片貝で荒川をせき止め、荒川や女川一帯の村々を沈めて大きな湖をつくって棲もうと思う。一曲聴かせてくれたお礼に秘密を明かしたので、早々にこの地を立ち去るように。ただし秘密を漏らしたら命はない。
そう言うと、生臭い風が吹きつけて人の気配がなくなった。蔵の市は慌てて峠を下りて、下関の集落に辿り着いた。そして大庄屋の宅を訪ねて、事の子細を告げたのである。だが語り終えると同時に蔵の市は息絶えており、大庄屋は村の一大事と人々を集めた。そして蔵の市の言い残した「蛇は金物が苦手」を頼りに、村中の釘や金物をかき集めて、峠一面に撒き散らしたり地面に埋め込んだ。大蛇は金気に当てられて七日七晩苦しみのたうち回り、そしてついに死んだのである。
命を投げ打って村を救った蔵の市を、村人は神として祀った。それが下関にある大蔵神社であり、蔵の市の持っていた琵琶が神宝として残されている(あるいは御神体とも)。また社殿のそばには、蔵の市が使っていた杖が根づいたとされる欅の木もある。
一方退治された大蛇であるが、こちらも独立した伝説が残されており、その出自は明らかである。
同じ村内ではあるものの、下関の集落を挟んで大里峠と反対方向に当たる場所、女川の流域に蛇喰(じゃばみ)という集落がある。そこに炭焼きの忠蔵とおりの夫婦と娘の3人が暮らしていた。ある日山仕事の最中に昼寝をしていた忠蔵は、怪しい気配に目を覚ました。すると目の前に大蛇が今にも襲いかかろうと身構えているではないか。忠蔵は斧を手にすると果敢に大蛇に立ち向かいに、何とか討ち果たした。そして大蛇をぶつ切りにして家に持ち帰ると、それを家にあった13個半の樽を全て使って味噌漬けにしたのである。ただし妻のおりのと娘には「決して中を見ないように」と言いつけておいた。
数日後、忠蔵が山に出掛けて留守の時、おりのは好奇心に駆られて樽の蓋を開けてしまう。すると中には美味そうな肉が味噌に漬かっている。1つぐらいはと思って食べてみると、恐ろしく美味い。もう1つもう1つと夢中になって樽の中の肉を食べ続け、とうとうおりのは全ての肉を平らげてしまった。すると今度は無性に喉が渇く。ふらふらと外に出ると、女川の岸辺に来て水を飲み出した。しばらくしてふと我に返って水面に映る自分の顔を見ると、そこには人ではなく角の生えた大蛇の姿があった。
夕方になって山から戻ってきた忠蔵は、一人取り残されて泣いている娘と、全部が空になった樽を見て、全てを悟った。そして女川の上流に分け入って妻を探したが、ついに見つけることはなかったという。
現在、蛇喰の地には“おりのの碑”が建てられている。そこには大蛇伝説の真相として「蛇喰の地名は“地滑りを起こしやすい土地に付けられた”もので、それが原因で飢えに瀕した家族を救うため、自ら苦界に身を沈めたのがおりのである」と記されている。
またこの大蛇伝説から着想を得て始められたのが「大したもん蛇まつり」である。ギネスブックにも掲載された、82.8mの巨大な蛇が村内を練り歩くという祭であるが、この大蛇の長さも昭和42年(1967年)に起こった羽越大水害の日付を記憶するためであるとされる。
<用語解説>
◆“蛇”のつく地名
全国各地にある“蛇”のつく地名であるが、そのほとんどが水害や土砂崩れの頻発する場所であるとされる。ちなみに大蛇が蔵の市に明かした秘密に出てくる“一番川幅の狭い片貝”は、関川村の中心地である下関の上流に位置し、その付近の川が蛇行している部分に接するようにある山の名も“蛇崩山”と呼ばれている。おそらくこの場所で過去に山崩れによる川の堰き止めや鉄砲水などの水害があったものと推測できる。
◆羽越水害
昭和42年(1967年)8月28日、下越地方と山形県を襲った豪雨。死者行方不明者100名あまり、全半壊した家屋が2000軒を超える。関川村では30時間で700mmの豪雨となり、荒川などが決壊して村の中心部(下関)でも土石流などの被害が出た。関川村での死者は34名、被害総額は当時の年予算の約60倍に当たる177億円に達した。
アクセス:新潟県岩船郡関川村下関(大蔵神社)
新潟県岩船郡関川村蛇喰(おりのの碑)