【ほんがんじ りゅうぐうのつりがね】
鳥取にある浄土宗の本願寺は、豊臣家臣の宮部継潤が開基である。継潤が帰依していた丹後国久美浜の本願寺住職の幻身和尚を招いて建立されている。この移設にまつわるとされる不思議な話が残されている。
天正年間(1573-1592年)の頃、和田五郎右衛門範元という浪人が、塩俵を馬に乗せて伏野の浜を歩いていた時のこと。突然海中から女が姿を現した。女は小さな鐘を小脇に抱えており、これを本願寺に届けて欲しいと頼んだ。範元が断ると、女は重ねて「私はこの下の龍宮に住む者だが、本願寺の阿弥陀仏が海の中におられた時に魚や貝にまで慈悲を施していただいた。そのお礼として鐘を差し上げたいのだ」と言う。それを聞いた範元は深く感ずるところがあって、本願寺へ鐘を届けると約束した。そして寺へ持参したところ、小さな鐘は見る間に大きくなって巨大な梵鐘に変わったのである。このような不思議から、この鐘は“龍宮の釣鐘”と呼ばれ寺宝となった。そして海からやって来た証拠として、鐘には鮑がくっついているという。
本願寺の本尊である阿弥陀仏も、上の伝承にある通り、一時期海中に没していた。これは丹後から因幡へ移る際に沈んだとされており、丹後国宮津での海中から光を発したことで見つかった阿弥陀仏は、宮部継順の要請によって本願寺に戻された。ただそれ以降、梅雨頃になると全身から汗をかいたように濡れそぼったために“汗かき阿弥陀”と呼ばれている。また一説によると、釣鐘の方も丹後から移す際に同じように船から落ちて沈んだものであるとも言われている。
釣鐘は平安時代前期に造られた希少なものであるとされ、国の重要文化財に指定されている。また昔から鐘にはひびが入っていて鳴らせないが、それを撞くと大水が起こると伝えられ、別名“鳴らずの鐘”とも言われている。本願寺の山門は龍宮門であり、上部が鐘楼となっているが、現在は鐘はそこにはなく、鳥取市歴史博物館やまびこ館に展示されている。
<用語解説>
◆宮部継潤
1528-1599。比叡山で修行した山法師で、元は浅井氏に属していたが、小谷城攻めの途中に羽柴秀吉に寝返り配下となる。秀吉の中国攻めで活躍し、本能寺の変の頃には鳥取城代として山陰地方の主力となる。豊臣政権下でも鳥取5万石(最終的には8万石余)の城主となり、山陰勢を率いて九州や小田原にも転戦する。
アクセス:鳥取県鳥取市寺町