【みょうまんじれいしょう】
現在は岩倉の地にある法華宗の妙満寺であるが、康応元年(1389年)の創建当初は、六条坊門室町にあった。その後、江戸時代初期までに市中を何箇所か移転、現在地には昭和43年(1968年)に移転している。
この寺の宝物館に納められている霊鐘がある。高さ105cm、直径63cm、重さ250kgの大きさで、小柄な人間であれば何とか中に収まる程度のものである。この鐘が妙満寺で保管されるようになったいきさつは、まさに鐘の持つ曰く因縁の深さによるものであると言える。
元をただせば、この鐘は紀伊国の道成寺のものであった。道成寺と言えば、安珍清姫の伝説で有名である。延長6年(928年)、紀伊国真砂の庄司の娘・清姫は、奥州白河の僧・安珍に懸想する。安珍は熊野詣でが終わった後で再会を約束するが、そのまま逃走。後を追った清姫は、妄執によって蛇身と化し、道成寺の鐘に隠れた安珍を鐘ごと焼き殺すという伝説である。道成寺では、新たに鐘を造ろうとするが、清姫の怨念のせいかことごとく鋳造に失敗する。結局、二代目の鐘が出来たのは、事件から400年ほど経った正平14年(1359年)のことであった。
鐘の供養が盛大におこなわれた時、一人の白拍子が舞を披露すると鐘がいきなり落ち、白拍子も蛇身となって消えてしまったのである。それから鐘を撞いても濁った音しかしなくなり、さらに疫病が流行るなどしたために、清姫の祟りであるとして遂に鐘を山中に打ち棄ててしまったのである。(この鐘供養の時の事件が、歌舞伎などで有名な『娘道成寺』の逸話である)
それからさらに200年以上の時を経た天正13年(1585年)、羽柴秀吉による紀州攻めがおこなわれた。その際に打ち棄てられた鐘を発見したのが、秀吉配下の武将・仙石久秀であった。久秀は、これを合戦の合図に使う陣鐘にしようと思い立ち、戦利品よろしく京都に持ち帰ることにした。ところが、京洛の近くまで来た時に、鐘を乗せた荷車が重さのために坂を登り切れず、やむなく土中に埋めてしまったのである。
結局、天正16年(1588年)この鐘を妙満寺に直接納めたのは、土中に埋められた鐘の近くの集落に住む者達であった。鐘が埋められてからよからぬ出来事が頻発したために、経力第一と言われた法華経で供養をしてもらおうとしたのである。引き取った妙満寺では、貫首の日殷大僧正が供養をおこない、遂に元の美しい鐘の音を取り戻したという。
後年、道成寺物を演じる役者が妙満寺に参詣、この鐘に舞台の無事や芸道成就の祈願をするようになり、現在でも多くの関係者が訪れるという。また平成16年(2004年)に、数奇な運命を辿った鐘は、400年ぶりに道成寺に里帰りを果たしている。
<用語解説>
◆仙石久秀
1552-1614。戦国時代の武将。豊臣秀吉に早くから付き従い、淡路攻略などの戦功を挙げる。しかし九州攻めの際には大敗を喫して、本領まで逃げ帰るという失態を見せて改易。その後小田原城攻めの功績で大名に復帰する。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、小諸藩初代藩主となる。
アクセス:京都市左京区岩倉幡枝町