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炭焼藤太夫婦の墓

【すみやきとうたふうふのはか】

奥州藤原氏全盛の頃、この金成の地で炭焼きをしている藤太という男がいた。ある時、藤太を訪ねて若く美しい女人が京の都からやって来た。清水の観音様のお告げで、奥州金成の地に住む炭焼きの嫁になりに来たという長者の娘(あるいは三条右大臣の娘・おこや姫とも)であった。藤太は驚きながらもそれを受け入れ、二人は夫婦となった。

慎ましやかに暮らしていた二人であるが、ある日、市へ炭を売りに行くついでに米や味噌を買ってきて貰おうと、姫は都から持参した砂金の包みを藤太に渡す。藤太は市へ行く途中、池に群れる鴨を見つけて、それを捕らえるために砂金の包みを投げつけた。上手く獲物を捕って喜んで帰ってきた藤太を見て、姫は呆れて、砂金がどれだけ価値のあるものなのか説明した。ところが藤太は「それなら炭焼きの窯の横にいっぱい転がっている」と言い出した。そこで姫が見に行くと、窯の横には砂金が山のように積み上げられており、それを元手にして二人は瞬く間に長者となったという。さらに二人の間には三人も男児が生まれ、それぞれ橘次・橘内・橘六と名付けた。息子達は成長して平泉の藤原秀衡の家臣となって、京都の交易を任されたといい、特に長男の橘次は若き源義経を奥州へ呼び寄せるなどの功績があった。

その後、藤太夫婦はこの地で悠々と暮らしていたが、仁安年間(1166~1169年)に相次いで亡くなったとされる。そして墓は常福寺の裏山に建てられたが、正徳5年(1715年)に大庄屋であった佐々木氏が郷土の偉人を大いに顕彰する目的で、碑を刻み、現在地に移設・管理するようになったとされる。

アクセス:宮城県栗原市金成日向

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