【まんしろうじんじゃ】
JR博多駅から博多港を一直線に結ぶ大通りの中間地点あたり、2つの大通りが交差する交差点のすぐそばにある、こぢんまりとした神社である。ご利益は商売繁盛と子供の息災という変わった組み合わせとなっているが、そこには一つの哀話が存在する。
関ヶ原の戦いの功績によって黒田氏が福岡藩を統治するようになってから経済面で大いに貢献した博多豪商が伊藤小左衛門である。小左衛門は黒田氏の福岡入り以降博多に店を構えて御用商人となり、さらに長崎にも出店して大いに財を成した。特に2代目小左衛門は、正保4年(1647年)に起こったポルトガル船来航事件の際に長崎警備に当たっていた藩を助けたことからさらに重用されるようになった。
ところが寛文7年(1667年)に大事件が起こる。対馬で座礁した船の隠し底から多くの刀剣や武具が見つかったことから朝鮮への密貿易が露見、その首謀者の一人として名が挙がったのが小左衛門である。10月15日、ちょうど長男の甚十郎の婚礼がおこなわれている只中に、捕吏が踏み込んで小左衛門は捕らえられ、間もなく磔刑に処されたのである(この逸話により、博多では10月15日に婚礼をおこなうことを避けるとの俗信があるらしい)。累は家族にも及び、博多の店を切り盛りしていた長男の甚十郎、長崎の店で父と共に商いをしていた次男の市三郎を始め、さらにはまだ幼かった三男の小四郎、四男の萬之助までもが全員斬首となったのである。
その後、闕所となった博多の店の跡地に建てられたのが、小左衛門の2人の子を祀った萬四郎神社とされる。そしてこの神社の境内にある稲荷社には、小左衛門に長らく仕えていたといわれる狐が祀られている。
しかしこの密貿易事件について詳細を記している『犯科帳』によると、巷間に伝わっている話とはかなり異なる。
事件発覚は密貿易に加担した者の下人による密告であるとされ、また伊藤小左衛門の捕縛についても6月に長崎で行われたことと記されており、婚礼の禁忌にまつわる俗信もまことしやかな嘘ということになる。そして最大の相違点は処罰の対象者で、刑を受けたのは小左衛門と長男・次男の3人だけで、小四郎と萬之助は他家の養子となって処刑を免れているのである。
おそらく、当時の博多随一の豪商を慕う者が供養のために神社を建立するにあたり、実際に罪を得た小左衛門らの名を出すことは憚られたが、無罪放免となった実子の名であれば黙認されようと名付けたのが真相なのだろう。小さいながらもしっかりと博多の町の中で篤く信仰されている神社である。
<用語解説>
◆ポルトガル船来航事件
来港禁止を受けた後もポルトガル船が通商を求めて港に来ることを警戒した幕府は、年交替で福岡藩と佐賀藩に長崎港の警備に当たらせていた。もし船が来た場合は追い払うか、出来ない場合は焼き討ちに処す命が下っていた。正保4年ポルトガル船が来航して焼き討ちをする段になり、福岡藩は火をつける藁束が集められず藩主黒田忠之が責めを負う覚悟をしたが、、その時伊藤小左衛門が古い家を買い集めて藁を調達した。
◆寛文の密貿易事件
5年間で7回の密貿易を繰り返した組織的犯罪。約100名が取り調べられ、40名以上が刑を処された。伊藤小左衛門は主犯ではなかったが、密貿易のための資金を提供しており、主要な罪人として磔となった。
◆『犯科帳』
寛文6年(1666年)から慶応3年(1867年)までの約200年にわたる、長崎奉行所でおこなわれた裁判記録。
アクセス:福岡県福岡市博多区下呉服町