【いけひめじんじゃ】
いつの頃の時代か、海部の鞆の浦という港(海部川河口にある港)に美しい姫が一人逃れてきた。どういう素姓で何から逃れてきたのかは分からなかったが、この阿津姫と名乗る姫を匿ったのは、鞆の浦の分限者であった高橋長者であった。姫を屋敷内に隠すように住まわせていたが、いつしかその存在は港で噂となり、知らぬ者はいないようになった。するとある夜、屋敷を武装した集団が襲ってきた。何とか敵を撃退したが、再び襲撃がないとは限らない。阿津姫は自ら屋敷を出ると申し出た。長者は引き留めたが、姫の決意は固く、ならばと長者の所領で一番奥地にある相川という場所へ隠れ住むように手配したのであった。
相川に移り住んだ阿津姫はしばらく密かに暮らしていたが、やはりその美貌故に噂が広まり、またしてもこの土地にいられなくなった。姫は誰にも告げずに相川と鞆の浦との中間あたりの大井の地に移った。だがそこの安住の地ではなく、間もなく武装した一団が襲来したのである。ここにきて姫はもはや他の地へ逃げることに疲れ果てたのか、住まいの前にある池に身を投げて命を絶ったのである。
海部川のそばの道脇に池姫神社という祠がある。ここに祀られているのが阿津姫であるという。またこの神社の前には池があり、これが阿津姫が身を投げた場所であるとされる。この池に棲む魚は、阿津姫が身を投げる時に持っていた機織の筬(おさ)の先端で目を突かれたために、全て片目になっているという。またこの池は高橋家の屋敷にあった井戸に通じており、池が濁ると井戸も濁るという話も残っている。
一方、高橋家にも姫が去った後日譚が残されている。阿津姫が屋敷を出る時、お礼に小判を渡そうとすると、長者は「“生まれ”がいただきたい」と答えたという。それ以降、高橋家では阿津姫のような美貌の女児が生まれるようになったという。また屋敷の井戸の水で顔を洗うと美人になれるという噂が立ち、多くに人が水をもらいに来たという。しかしこの高橋長者の家もいつしかなくなり、今はその跡を知る人もない。
アクセス:徳島県海部郡海陽町大井