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組屋地蔵

【くみやじぞう】

慶長6年(1601年)、前年の徳川家康と石田三成の戦いで功のあった京極高次は若狭一国を与えられた。そして居城を後瀬山城から平地に移すことを計画した。これが今の小浜城の始まりである。だが選ばれた土地は、2つの大きな川に挟まれ、海に面した湿地帯であり、建築当初から難工事が予想されるものであった。そのためか、築城の早い段階で人柱が立てられている。

人柱供出の責を負ったのは、小浜城建設に携わっていた豪商・組屋六郎左衛門である。悩み抜いた挙げ句、組屋は最終的に我が娘を人柱とすることに決めた。こうして娘は本丸の櫓が建てられる場所に生き埋めとされたのである。

しかし小浜城建築は遅々として進まず、寛永12年(1634年)には京極家に代わって譜代の酒井忠勝が小浜藩主となるが、その時にはまだ天守が完成していなかった。それどころか奇怪な噂が広まっていた。本丸の蜘蛛手櫓近くで夜な夜な女のすすり泣く声が聞こえるという。噂を気にした城代家老の三浦帯刀が調べてみると、かつてその場所に組屋の娘が人柱として埋められた事実が判明したのである。哀れに思った帯刀は、娘の供養にと地蔵を造り、それを本丸守護のために櫓のそばに置いた。それが“組屋地蔵”と呼ばれるようになり、小浜城も寛永19年(1642年)になってようやく完成したのである。

だがこの“組屋地蔵”は数奇な運命を辿る。寛文2年(1662年)に起こった大地震で本丸付近の石垣が崩れ落ち、その修繕作業をおこなっている内に地蔵は行方不明となった。それ以降地蔵の存在は忘れられてしまったのである。そして時を経て昭和28年(1953年)の風水害によって再び石垣が崩れ、その修繕工事が始められた昭和34年(1959年)に石垣の中から一体の地蔵が発見された。刻まれた家紋から、これが過去の記録にあった組屋地蔵であると判り、かつて安置されていた蜘蛛手櫓のそばに堂を建てて祀られるようになったのである。

<用語解説>
◆京極高次
1563-1609。姉が豊臣秀吉の側室、妻が淀君の妹(常高院)のため、閨閥によって近江大津城主の地位に就けたとされる。関ヶ原の合戦の際には大津城に籠もり、西軍主力を釘付けにして関ヶ原の本戦に参加させなかった。この功により若狭一国を与えられた。

◆酒井忠勝
1587-1662。3代徳川家光・4代家綱に仕えて老中・大老に任ぜられ、幕閣の中枢を担った。現在は、小浜城跡に建立された小浜神社(組屋地蔵はその入口にある)の主祭神として祀られている。

◆組屋六郎左衛門
室町時代から回船業を営み、代々“六郎左衛門”を名乗り、小浜を拠点とした豪商。関ヶ原の戦い前後の組屋六郎左衛門は、豊臣秀吉の命を受けて物産を各地に輸送したり、京極家の代官として統治に参画するなど、経済面で統治者に協力してその地位を確保している。これらの活動は幕末まで続き、『組屋家文書』として残されている。

アクセス:福井県小浜市城内

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