【おせんころがし】
“おせんころがし”はかつての交通の難所であり、高さ数十mの断崖が約4kmに渡って続き、その中腹あたりに道がへばりつくように作られていた(現在は国道128号がやや内陸よりに通っている)。この奇妙な地名は“お仙”という娘の悲劇にまつわるものであり、国道にあるおせんころがしトンネルそばから伸びる旧道を海岸に向かって進むと、その供養碑がある。ただこの“お仙”にまつわる伝説はいくつかのパターンがある。
最も有名な伝承では、お仙は、この地域を治めていた古仙家の一人娘であるとされている。領主の娘として何不自由なく育てられていたお仙であったが、その聡明さゆえに、領民の窮状を知るところとなった。古仙家は重い年貢を領民に課して厳しく取り立てていたのである。心を痛めたお仙は、数え13歳の時に意を決して、父親に華美な生活を慎みたいと願い出た。その健気な態度は領民の怨嗟を鎮めた。
そしてお仙18歳の秋は久しぶりの豊作であった。ところが欲深い古仙家はこの時ばかりと年貢の率をつり上げた。領民は名主を立てて交渉するが、けんもほろろであった。さらにそれを聞いたお仙も懇願するが、それすらも拒否してしまった。ここに来て領民は怒りを爆発させた。秋祭りの夜、酒に酔った若い者を中心に領主の家を襲い、酔いつぶれて寝ている領主を有無も言わさず簀巻きにすると、断崖から投げ落としたのである。
翌朝、領主の死を確かめに浜まで降りた領民は、そこで変わり果てた姿のお仙を見つける。父親の着物を身につけたお仙の亡骸を見た領民は、自分たちの暴挙を悔い泣き叫び続けた。それは命を救われた領主も同じであった。やがてお仙が亡くなった断崖は“おせんころがし”と呼ばれるようになり、その霊を慰めるために「孝女お仙供養塔」が領民の手によって建てられたという。
その他にも、病弱の父を看病しながら働くお仙の美貌に目を付けた代官が、金で父親を口説こうとしたが拒絶されたため、父親を簀巻きにして断崖の上に放置。それを知ったお仙が父親の身代わりにすり替わり、やがて戻って来た役人によって断崖から投げ落とされたという伝承。
あるいは、父親が後妻をもらうが、後妻は継子のお仙を苛め、自分の子ができたために殺してしまおうと決意。断崖の上にある萱を刈るように命じて、そこで不意を突いて突き落とした。さらにかろうじて宙づりになっていたお仙を蹴り続けて、ついに断崖の下へ転がり落として殺したという伝承もある。いずれにせよ父親との絡みによって命を落とすことになる結末となっている。
現在、このおせんころがしを有名にしているのは、昭和26年(1951年)に起こった“おせんころがし殺人事件”である。この事件では母子4名が断崖に投げ落とされ、さらに崖の途中に止まっていた被害者の息の根を止めるという凄惨なものであった。ただ投げ落とされた当時11歳の長女だけは、軽傷ながらも身を隠して死を免れたと記録されている。
<用語解説>
◆おせんころがし殺人事件
昭和26年(1951年)10月10日に発生。国鉄勝浦駅で偶然出会った、父親の行方を探している母子4人連れを強姦目的で家に送ると称し、おせんころがし近辺で脅すと、長男(6歳)を石で滅多打ちにして崖から投げ落とし、次に長女(11歳)を殴打して同じく投げ落とした。さらに母親の背中にあった次女(3歳)を地面に数回叩きつけて崖に投げ落とした末、母親(29歳)を強姦、首を絞めて殺して崖下に投げ落とした。そしてしばらくして崖の途中にあった被害者を執拗に探し出して、石で頭や顔を殴って口封じのため完全に殺害した。ただ長女だけは軽傷であったため、近くの草むらに隠れて、結局発見されずに殺害を免れた。
犯人の栗田源蔵は、その他数カ所でも計8名を殺害しており、一審の裁判で2度の死刑判決を受ける初のケースとなった。昭和34年(1959年)に処刑。
アクセス:千葉県勝浦市大沢