【かねうりきちじのはか/たかおじんじゃ】
金売吉次は奥州の商人で、京の都にいた源義経を奥州の覇者の藤原秀衡に引き合わせるなど伝説を持つ人物である。その実在は定かではなく、奥州と京都との交易を手がけた複数の有力商人が一人の人格として歴史に残った名であるのかもしれないが、その最期はいずれも奥州へ帰り着く旅先での客死となっている。
壬生町にも金売吉次の墓と称するものが残されている。ただこの地に残されている伝承では、源頼朝に追われる身となった源義経を伴って奥州へ赴く途中、この地で病を得て倒れそのまま亡くなったとなっている。他の場所にある吉次の最期の伝説で、盗賊に襲われ惨殺されたとあるのとは大きく異なる。そしてさらに異色なのは、死亡後の後日談が残されており、一人の女性の悲話があるところである。
吉次の墓からほぼ北に1kmほど離れた場所にある高尾神社の創建由来に、小納言高尾という女性が登場する。社伝によると、高尾は因幡国出身で、高倉天皇の中宮・建礼門院に仕えた女官である。源平の合戦で都が騒然とし、平家一門が福原へ都落ちすることとなった折、高尾は暇乞いをして郷里の因幡へ帰ろうとした。しかし頼りとしていた従者が道中間もなく病で亡くなり、女一人の旅となった。そのような不安を抱えていたところ、とある山道で賊に襲われそうになった。その時たまたま居合わせた商人がその危急を救い、何かと世話をして因幡へ帰れるよう取り計らってくれたのである。しかしその商人は高尾に名を告げることなく立ち去ったため、是非にお礼を思い立ち、周囲の者に尋ねると“金売吉次”という奥州の商人であった。
それを聞くと高尾は一旦因幡への帰郷を取り止め、美禰と名を変えて吉次の後を追って奥州へ向かった。そして訪ね歩くうちたどり着いたのが、下野国都賀郡稲葉の里である。だが、そこに滞在しているはずの吉次は既に病で亡くなっており、願いを叶えることが出来なかった高尾は、吉次の墓を建てこの地で供養する身となった。間もなく病を得ると、もはや故郷の因幡へ戻ることも出来ないと悟り、高尾小納言の名を明かした。そして懐から懐剣と錦を取り出すと、懐剣は建礼門院より授かったもので家宝として代々伝えよ、錦の方は内裏より頂戴した宝物故に地中に埋めて故郷の高尾大明神を勧請して社を建てるよう遺言して亡くなったのである。
文治5年(1189年)、高尾の一回忌に合わせて錦を土中に埋めて祠を建て、高尾大明神を勧請。さらに3年後に疫病が流行るもこの集落だけは一人も発症する者なく、ますます崇敬篤くして稲葉の里の氏神として社を建てた。それが現在の高尾神社である。
アクセス:栃木県下都賀郡壬生町上稲葉