【かみおかだじんじゃ】
八頭町姫路は鳥取市国府町に隣接するが、過疎地域である。近くにキャンプ場などの公園施設があるため道路は整備されているが、それよりも奥へ行くともはや集落らしい集落もない。姫路の集落も空き家が目立つ。このような地だからこそあるのが“落人伝説”である。この地は安徳天皇が隠れ住んだという伝承が残されている。
当地の伝承によると、壇ノ浦で亡くなったとされる安徳天皇であるが、平知盛の策によって二位の尼(安徳帝祖母:平時子)を始めとして大勢の女官や、平景清などの武将と共に戦場を離れて、因幡国の賀露の港に上陸を果たした。そこから一行は内陸へ入り、まず因幡の国府である岡益にある光良院(現・長通寺)に一時身を寄せる。しかし人目につきやすいために、住職の宗源和尚の勧めてさらに山を越えて奥地へ逃れ、ようやくここで行宮を置いて、終の棲家としたというのである。そしてその地は“平家の官女がやって来て住むようになった”ということで“姫路”と呼ばれるようになった、また行宮を置いたことで“秘やかな都”という意味の“私都(きさいち)”という地名ができたとの伝承もあるらしい。
しかしこの地に行宮ができて2年ほどして、安徳天皇は急な病によって崩御。わずか10歳であったという。主を失った落人たちであるが、結局彼らはこの地に定住し、平家一門の血を受け継いでいったのである。
この集落にある上岡田神社は祭神を大山祇命と安徳天皇とし、崩御後に御霊を慰めるために建立されたと伝わる。そして神社の奥には、数多くの五輪塔が所狭しと並べられている。これは安徳天皇や二位の尼をはじめ、平家一門の墓であるとされており、安徳天皇陵であるとされている(ただしどれが安徳天皇の墓であるかは特定されていないし、宮内庁の参考陵墓にも指定されていない)。またこの神社の裏を流れる宮川には、昭和初期の頃まで片目の雑魚が棲息していたが、これは天皇が戯れに片目を潰した雑魚の子孫であったという伝承が残っている。
<用語解説>
◆安徳天皇
1178-1185。第81代天皇。母が平清盛の娘・建礼門院であったため、わずか数え3歳で即位する。平家没落後は共に各地を転々とし、最終的に壇ノ浦の戦いで祖母の二位の尼に抱きかかえられて入水した。正式な御陵は山口県下関市にある阿弥陀寺陵(赤間神宮境内)とされるが、数々の生存説が西日本を中心に伝えられ、宮内庁が陵墓参考地として5箇所を管理している。
◆賀露・岡益
賀露は鳥取市を流れる千代川河口にある港。
岡益は鳥取市国府町にある。ここには安徳天皇陵墓参考地の1つである“岡益の石堂”があり、安徳天皇がこの地に行宮を置いた後に崩御したとの伝承も残されている。
アクセス:鳥取県八頭郡八頭町姫路