【てんしょうじ たこじぞう】
現在の岸和田城のあたりに、中世の初め頃、大きな寺院があって地蔵菩薩が安置されていたという。ところがそこへ大勢の賊が侵入してあらゆるものを破壊する暴挙に及んだ。安置されている木像の地蔵も叩き壊そうとしたが、刀を使っても傷つけることすら出来ない。恐れおののいた賊は、この地蔵を海へ投げ棄ててしまったのである。
それから長い年月が過ぎた、後醍醐天皇の治世の頃。和泉国は功績のあった楠木正成が守護となり、その親族である和田高家が統治した。ある時大嵐が起こり、あわや城が高浪で沈みそうになった時、突然波間から大蛸に乗った法師が現れた。蛸が城まで来ると大荒れだった波と風は一瞬で収まり、城の壊滅は免れた。そして人々が法師に近づくと、それは立派な地蔵菩薩像であった。かつて海に棄てられた地蔵のことを思い出し、まさにそれであると高家始め人々は場内に安置して日々拝んだ。
しかし後醍醐天皇の治世はすぐに終わり、政情が不安定となったため、地蔵菩薩像が壊されないように丁重に泥の中に埋め隠した。そしてさらに年月が過ぎた天正12年(1584年)のこと。
畿内をほぼ制圧した豊臣秀吉は小牧長久手の戦いに出陣したが、その隙を突いて紀州の根来・雑賀衆約3万が大挙して岸和田城を攻撃した。城主の中村一氏や松浦肥前守は徹底抗戦するが多勢に無勢、最早落城寸前となった時、突然ひとりの法師が現れ錫杖を振り回して敵を蹴散らしだした。だがたった一人の戦いではどうにもならず、再び追い込まれると、今度は城に面した海から何千何万という蛸の大群が轟音を立てて押し寄せ、一気に敵を退散させたのである。
戦が終わり、謎の法師の行方を探したが誰も分からない。だが、その夜城主の夢枕に法師が現れて、自分はこの地を守るために出現した地蔵菩薩であり、堀の中に埋め隠されていると告げた。数日後、城の堀で謎の光が目撃され、掘ると夢のお告げ通り地蔵菩薩像が出てきたので、それを祀った。さらに城主が小出秀政となった折、より多くの者が参拝しやすいよう、日本一大きな地蔵堂を建立してそこに安置したのである。
このような数奇な運命をたどりながら、岸和田の町と共に年月を過ごしてきた地蔵菩薩は、今も「蛸地蔵」の名で親しまれている。
<用語解説>
◆和田高家
生没年不詳。楠木正成の弟・正季の息子、あるいは正成の妹の孫ともされるが、『太平記』ではその名が登場しないなど存在自体がかなりあやしい人物である。一説では、岸和田の地名は元々あった“岸”村の城(岸和田城)ににこの高家が入ったことから起こったとの説がある(史実としては南朝の武将・岸和田治氏が開拓した地とされる)。
◆中村一氏
?-1600。元織田家臣で、秀吉が長浜城主になった頃には秀吉配下となっている。賤ヶ岳の戦いの功績により、岸和田城3万石の領地を得る。翌年、蛸地蔵の縁起に登場する岸和田合戦が起こる。翌天正13年(1585年)に近江水口に転封。
◆松浦肥前守
松浦肥前守を名乗る一族は和泉国守護代として細川氏に仕えていたが、三好氏と結託、さらに松浦肥前守光(ひかる)の時代に織田信長の勢力下で和泉を実効支配する。ただし光は天正の初め頃に死去。岸和田合戦の頃には光の部下であった寺田安大夫が松浦宗清を名乗って岸和田に在城している(ただし出自の関係からか、宗清は肥前守を名乗っていない)。
◆小出秀政
1540-1604。元織田家臣であったが、妻が秀吉の母の妹という縁より秀吉に仕える。小出氏は元和5年(1619年)まで岸和田藩主として存続する。
アクセス:大阪府岸和田市南町