サイトアイコン 伝承怪談奇談・歴史秘話の現場を紹介|日本伝承大鑑

勝田神社 白尾神社

【かんだじんじゃ しらおじんじゃ】

勝田神社は米子から境港に至る“弓ヶ浜”一帯、勝田の庄の総産土神として篤く崇敬されている。現在地に遷座したのは社伝では天文22年(1553年)とされるが、実際には米子城建築に合わせて鬼門の地に置かれたとも言われ、歴代藩主が社殿造営や改修をおこなっている。

祭神は天之忍穂耳命であるが、創建当初は、この勝田の庄を開発したとされる勝田上総介四郎とその一族を祀る社であった。勝田上総介は、元は石見国津和野の出身の武士であるが、承応年間(1288~1292年)に一族郎党を率いてこの弓ヶ浜の地に移住してきた。土地が低く沼などの湿地帯の多い土地であったが、開拓を進めて人が多数住める場所にしたのがこの勝田上総介であり、その名から一帯を勝田の庄と呼ぶようになったという。

ところが、元は人が住めないような土地であったせいか、この付近には多くの賊が住み着いており、人々から“鬼ヶ沢”と呼ばれ怖れられていた。賊は村々を襲っては金品や人を奪うなどの狼藉を働き続けたため、遂に人々は土地を治めるに至った勝田上総介に賊討伐を懇願した。上総介はその願いを聞き届け、一族郎党を従えて鬼ヶ沢に向かい、最終的に撃滅させたのである。しかし討った側の被害も甚大で、当主の勝田上総介も激戦の最中に流れ矢が当たり討ち死にしたのである。そこで家臣の浜田五郎丸らが中心となって、上総介の功績を讃えて一社を建立した。それが勝田神社の起こりとされている。

初め勝田神社は、鬼ヶ沢に近い外江村に“勝田明神”として祀られた。そしてその後、勝田の庄の総産土神として米子に遷座したため、元の地には白尾神社が新たに建立された。しかし現在の白尾神社の祭神にも勝田上総介の名はなく、天照大神と豊受姫神となっている。ただ伝承では“白尾”の名は勝田上総介の名である“四郎”から採られたものであると言われる。さらに白尾神社と道路を隔てた向かい側には、剱御崎勝田神社という小祠があり、勝田上総介四郎と浜田五郎丸が祭神となっている。またこの小祠には五郎丸が所有していた剣を御神体としていたともされる。

<用語解説>
◆米子城
現在の湊山に城郭が建設されたのが天正19年(1591年)であり、関ヶ原の戦い後に移封された中村一忠が慶長7年(1602年)頃に完成させた。勝田神社を鬼門守護の社としたのは、慶長14年(1609年)に移封してきた加藤貞泰で、以降因伯二ヶ国の藩主となった池田光政以降も勝田神社を大いに崇敬した。城は池田家が因幡・伯耆両国を治めた後も城代が置かれ、明治維新に至るまで荒尾氏が管理した。

◆鬼ヶ沢の位置
『日本の伝説47 鳥取の伝説』によると、鬼ヶ沢とされる土地は、境港市新屋町付近であるとしている。

アクセス: 鳥取県米子市博労町(勝田神社)
      鳥取県境港市外江町(白尾神社)

モバイルバージョンを終了