サイトアイコン 伝承怪談奇談・歴史秘話の現場を紹介|日本伝承大鑑

元善光寺

【もとぜんこうじ】

信濃国麻績の里の住人、本多(本田)善光が国司に伴って都に赴いたのは、推古天皇の御代8年(600年)のことである。ある時、善光が難波の堀江の端を歩いていると、水底が光り輝き一体の阿弥陀三尊像が出現した。仏像は驚く善光の背に負ぶさると、自らの出自と善光自身の前世について語り出した。

仏像は遠くインドの月蓋長者が釈迦に帰依する際にこしらえたものであり、インドから朝鮮の百済を経て、欽明天皇の御代に日本に運ばれてきた。ところが、仏教を推進する蘇我稲目と排斥する物部尾輿が対立し、最終的に仏像は難波の堀江に打ち棄てられた。さらに尾輿の息子である物部守屋が聖徳太子に討たれた後も、像自らの意志でこの堀江に沈んだままであったという。

一方、阿弥陀像を造った長者は、その死後も像に仕えるため何度も転生を繰り返し、百済の聖明王としても生まれ変わったという。そして現在、本多善光として日本に転生しているのだという。

真実を知った善光は喜び、この仏像を背負って帰国することを決める。そして里に帰ると、自宅の石臼の上に安置して毎日礼拝するようになった。これが現在の元善光寺の始まりである。また、仏像を安置した石臼はそれ自体が光り輝くようになり、「御座光の臼」と呼ばれるようになった。このことから当地は座光寺という名称となったとされる。

善光がこの地に仏像を安置して41年後、阿弥陀三尊像が自らの芋井の里(現・長野市)へ遷ると言われたことから、善光は霊木を用いて阿弥陀像を模刻して新たに寺に安置することにした。これが現在の元善光寺の本尊となっている。そして阿弥陀像は現在の善光寺へと遷ったが、月の半分はこの元善光寺に帰ってくると言い伝えられている。

<用語解説>
◆難波の堀江
16代仁徳天皇の命によって開削された水路。本多善光が阿弥陀三尊像を見出した場所は、現在の大阪市西区北堀江にある阿弥陀池であるとされ、隣接地には江戸時代以降和光寺が置かれている。

◆善光寺
長野市にある無宗派の寺院で、全国から多くの参拝者が集まる。
本尊は「一光三尊阿弥陀如来」と呼ばれる独特の形式の像であり、絶対秘仏とされている。なお模刻された元善光寺の本尊は7年ごとに開帳されている。

アクセス:長野県飯田市座光寺

モバイルバージョンを終了