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景清洞・生目八幡

【かげきよどう いきめはちまん】

秋吉台にある観光鍾乳洞の1つに景清洞がある。奥行きは約1.5km、そのうち700mが一般に公開されている(さらに奥の400mも条件付きで探検出来るらしい)。

この洞穴の名であるが、本来この鍾乳洞の支洞の名称であったが、いつしか全体を指す名前になったという。この名前の由来であるが、鎌倉時代初期まで遡る。源平の合戦で敗れた平家の残党がこの洞窟内に隠れ住んでいた。自治体の紹介によると、潜んでいたのは大庭景宗の一党で、壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた。しばらくはこの地で安寧に暮らすことが出来ていたが、源氏の詮索は厳しく、遂に建久9年(1198年)に追捕の手勢がこの洞穴を急襲した。その時、頭領の大庭景宗は不在であったが、それに代わって子の景清が指揮を執って大いに奮戦し、追っ手を撃退したという。これによって“景清”の名が付いたとされる。

しかしこの時代で“景清”と言えば平悪七兵衛景清であり、景清洞の伝説の別説では、壇ノ浦の戦いで敗れた後に再起を図った平景清が隠れ住んだとされる。さらに、景清洞内に置かれている生目八幡の祭神は平景清である(むしろ“生目”の名が付く神社は全て平景清を主祭神として建立されていると言った方が正しい)。

地元に残る伝説によると、眼病に悩まれていた景清が、洞内の水で目を洗い続けたところ全快したという。その伝説を信じた平生村の栄三郎という者が洞内に籠もって眼病を治し、お礼として文政4年(1821年)に建立したのが生目八幡である。現在でも地元では眼病に効験があるとして大いに信仰されているとのこと。

<用語解説>
◆大庭景清
大庭景宗の子とされるが、該当の人物は史実として確認されない。また大庭景宗は、保元の乱以降源平の戦いに参加した大庭景義・景親兄弟の父親であり、建久9年当時に存命であれば90歳前後の年齢になっていると推測される(ただし大庭景義の生没年が1128-1210なので、存命の可能性を完全に否定は出来ない)。

◆平景清
生没年不明。平家方の有力武将として名を馳せ、壇ノ浦の戦いまで参戦。その後の消息は不明となるが、全国各地に隠れ住んだとの伝説が残されている。また能・謡曲の演目として伝えられる内容では、源頼朝暗殺を試みて捕らえられるものの助命され、日向国へ流される。そこで「源氏が栄える世を見るのは無念」と自ら両目を潰してしまい盲目となったとされる。この逸話から景清は眼病の神として各地に祀られるようになった。

アクセス:山口県美祢市美東町赤

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