【ごとばじんじゃ】
その名の通り、後鳥羽院を祭神とする。後鳥羽院は、承久3年(1221年)に起こった承久の乱の首謀者として幕府によって隠岐へ流されたというのが史実であるが、京都から隠岐よりさらに離れたこの地には次のような伝説が残されている。
隠岐に流された院であるが、実はその地で没したのではなく、密かにこの肥前国へ移られていたという。このあたり一帯は後鳥羽院の随臣であった西川左衛門大輔家房の所領であり、この家房が隠岐より随行して院をこの地に匿ったとされるのである。
院がこの地に初めて足を踏み入れた時の逸話が、この地域には残されている。数名の供の者だけが付き従っただけの一行は、この村に入ると一軒の農家へ行って食べ物を請うた。しかしその家にいた老婆は、都からやって来たという一行に対して、都人の口に合うような食事は用意できないと一度は断った。しかし是非にと再度請われると、作りかけていた稗粥を差し出したという。この粥で暖をとった院は、その時に
かくばかり 身のあたたまる 草の名を いかでか人は ひえと言うらむ
と謳ったとされる。
その後、院はこの地で暮らし、延応元年(1239年)に没したとされる。遺体は裏山の塚に葬られ(現在は“鳥羽院公園”の一角にある)、遺言によって神社が設けられたという。このような来歴があるため、この地は現在も“鳥羽院(とばい)”という名が付けられている。
アクセス:佐賀県神埼市脊振町鹿路下鳥羽院