【きたやまのみや/りゅうせんじ】
北山宮は小橡地区の氏神として祀られている神社である。30km以上離れた吉野神宮の境外摂社で旧県社という社格を持つ、南朝ゆかりの社であり、その歴史は古い。
祭神である北山宮は後亀山天皇の玄孫とされ(最近の研究では長慶天皇の孫という説も有力視されている)、いわゆる“後南朝”の歴史において第2代天皇・自天王とされる人物である。しかし後南朝の歴史は史料も乏しいため不明な点も多く、自天王が皇族の血統であるかについてすら疑問を呈する研究者もある。
ただこの謎多き宮に関して「歴史的事実」として確認できる出来事は、長禄元年(1457年)12月2日に実弟の河野宮と共に赤松家家臣によって討ち取られたという“長禄の変”のみである。当日この地にあった宮は雪の降る夜半に少人数の者によって急襲されて討ち取られ、玉璽と共に首級を持ち去られた。伝わるところでは、享年僅か18の生涯であった。
ところが事態を知った吉野郷の民は総出で逃げる赤松家家臣を追走して攻撃を加え、最終的に玉璽と首級の奪還に成功する。そして主を失った小橡の集落では、宮の遺臣や里の者が宮を追慕して祠を祀った。これが北山宮の創建であるとされる。
一方、北山宮からそれほど離れていない場所にある瀧川寺は、宮が御所として滞在していた場所であり、おそらく暗殺の舞台でもあったと推測される。無事に奪還された首級は、この地まで運ばれて、瀧川寺の境内に埋葬された。北山宮墓として、現在でも宮内庁が管理するところとなっている。
<用語解説>
◆後南朝
明徳3年(1392年)に南北朝の2つの皇統が合一され、それぞれが交代で天皇を即位させる約束になっていたが、応永19年(1412年)にそれが反故にされたことから、南朝最後の後亀山上皇が皇子の小倉宮と共に京都を脱出して再度南朝を立てた。これが“後南朝”の始まりである。その後幾度かの武力衝突や暗闘が繰り広げられたが、後南朝の勢力は縮小の一途をたどり、文明3年(1471年)応仁の乱の最中、西軍の山名宗全が小倉宮の末裔とされる者を京都へ呼び寄せ、“西陣南帝”と称したのが史実上最後の記録となる。それ以降は美作国などで南朝の後胤と名乗る者が散発的に登場するが、江戸時代には断絶。その後は第二次世界大戦後に“熊沢天皇”などが後南朝の末裔として世間の耳目を集めた。
◆長禄の変発生前後の顛末
後南朝が起こした最大の事件は、嘉吉3年(1443年)に素性不明の源尊秀なる人物率いる兵300が京都御所に乱入し、三種の神器の剣と神璽(勾玉)を奪い、さらに小倉宮の孫にあたる通蔵主・金蔵主を立てて比叡山に立て籠もった“禁闕の変”である。数日後に乱は治まるが、神璽だけは後南朝の手に渡るという事態となった。
一方、嘉吉の乱(1441年)で将軍足利義教を暗殺した赤松氏は攻め滅ぼされ、家臣団も所領を失っていた。しかし御家再興を画策する家臣団は、後南朝に奪われた神璽奪還を成功させることを条件に、朝廷・幕府の内々の約束を取り付ける。そして朝廷(北朝)・幕府に遺恨を持つ者として巧みに後南朝の信用を得て、奪還を目指したとされる。
なお長禄の変で神璽奪還は果たせなかったものの、翌年3月に別の赤松家臣が奪還(おそらく窃盗)に成功し、赤松氏は新たに領地を得て、幕府の役職に復帰している。
アクセス:奈良県吉野郡上北山村小橡