【じみょういんさま】
鹿児島市のランドマークの1つ、西郷隆盛像の裏手にあるのが鹿児島市立美術館である。その屋外敷地の隅の方にあるのが持明院様、通称「じめさあ」の石像である。
持明院様とは、島津氏18代当主島津忠恒の正室の院号である。持明院様こと島津亀寿は16代当主の義久の三女で、忠恒とは従兄弟同士の関係である。亀寿は最初忠恒の兄で島津家次期当主とされた久保に嫁ぐが、久保が病没したため忠恒に嫁した。そのためか2人の仲は悪く、子を成すことはなかった。しかしながら亀寿は心優しい女性で、当時の領民から広く慕われる存在であったとされる。そして現在でも「じめさあ」と呼ばれ愛され、命日である10月5日に市役所の職員によって顔に化粧が施される。顔の白粉はポスターカラーらしいが、頬紅や口紅は実際の化粧品を使用するという。これは持明院様が生前容貌が醜いことを非常に恥じていたため、石像に化粧を施して美しく見せる風習なのだとされている。(下の写真は8月中旬頃撮ったものなので、化粧がかなり落ちた状態である)
と、以上のような伝承が一般的に流布しているが、一方でその“真相”に関する情報が鹿児島市役所のサイトに掲載されている。
昭和4年(1929年)、市立美術館のある土地には鹿児島市役所があったが、当時の市長樺山可也が庭で見つけた石の苔を取り除くと顔が見える。“風の神”の石像だと思った樺山は、早速自分で顔に彩色を施した。これがいつの間にか、江戸時代の鶴丸城二ノ丸にあったと言われる持明院様の石像であるとされるようになり、昭和29年(1954年)からは現在のように命日に合わせて市職員が化粧を施すようになった……というのが真実らしい。要するに、この石像が本当に持明院様の石像であるかの確証は非常に怪しく、しかも化粧を施す風習も昭和以降に偶然おこなわれるようになっただけなのである。
だがこのような真相が明確であるにも拘わらず、じめさあは鹿児島市の不思議な伝説スポットとして人気を博している。これが歴史とは異なる、伝承の面白味と言えるかもしれない。
<用語解説>
◆島津忠恒
1576-1638。薩摩藩初代藩主。後に徳川家康から一字貰い“家久”と名乗る(叔父にも“家久”がいるため、便宜上忠恒で統一)。島津義久の弟・義弘の子であり、亀寿は5歳年上の従姉にあたる。亀寿とは夫婦仲が悪く、島津家歴代当主の墓で唯一夫婦の墓が並んで置かれていない。また亀寿との間には子がないが、岳父義久没後から側室を置いて以降、30人以上の子をもうけている。
◆樺山可也
1876-1932。鹿児島県出身。父は西南戦争時に西郷軍の軍医を務め戦死。海軍大学校首席卒業、海軍少将で予備役となる。昭和4年(1929年)に鹿児島市長に初当選し、その後在職中に死去。
アクセス:鹿児島県鹿児島市城山町(市立美術館敷地内)