【うしつなぎいし】
「敵に塩を送る」という故事は、義将・上杉謙信の美談として知られるところである。
永禄10年(1567年)、甲斐と信濃を領していた武田信玄は、娘を織田家へ嫁がせて同盟を結ぶ。これは弱体化した今川家との同盟を破棄、その所領である駿河への侵攻を意図したものであるとされる。この武田と織田の同盟に対して、今川側が取った対抗策が「塩留め」であった。領内に海を持たない武田氏は、同盟していた今川・北条氏から塩を買い求めていた。それを止められることは深刻な問題であった。
これに対して救いの手を差しのべたのが、当時敵対していた上杉謙信である。正々堂々の戦ではなく、卑怯な手段で領民をも苦しめるのは許しがたしとばかり、糸魚川から武田領へと塩を送り込んだのである。これが「敵に塩を送る」故事の由来とされる。
松本市の繁華街、中央2丁目の交差点にあるのが、この故事の伝承地とされる“牛つなぎ石”である。糸魚川から送られた塩は街道を通って、当時武田領であった松本へ運ばれた。そしてその塩を運んできた牛を休ませるために繋いだのが、この石であるとされるのである。
しかし実際は、この石は道祖神であり、江戸時代初期に松本の城下町ができた時に別の場所から移されてきたものである。ただこの地は江戸時代以降毎年1月11日に塩の売り買いが行われる“塩市”が立つ場所であり、この“塩市”の起こりが上杉謙信の逸話であるという言い伝えがいつしか出来上がったというのが真相のようである。
明治38年(1905年)に塩の専売制が始まると塩市はなくなり、代わって当時生産のさかんだった飴を売る“飴市”が始まった。そして現在でも毎月のイベントとして継承されている。
<用語解説>
◆「敵に塩を送る」の真相
今川氏が塩留めを実施している間も、上杉領から塩が武田領へ移送されていたことは事実である。しかしそれは無償で送られたものではなく、商取引を伴うものであったとされ、謙信はそれまであった“糸魚川~松本”ルートの塩の売買を禁止しなかったというだけのことである。すなわち後年「義に厚い武将」とのイメージから作り上げられた逸話でしかない。
アクセス:長野県松本市中央2丁目